吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 5
文学博士 榊原 静山
漢代
漢の劉邦は漢の高祖として都を長安に移し、秦平の世の基礎をなした。
この時代はまた学問、技芸が盛んになり、外に向かっては張騫の国際的な大月氏国の大旅行など輝やかしい事績もあるが、反面、北方の匈奴の脅威を受け、つねに苦悩していた。かの有名な王昭君が匈奴へ送られたのもこの時代である。
劉邦
項羽
また内面的には外戚や宦官がのさばった。若い皇帝をたてては自分の権力をふるおうとする宦官が多く出て、内憂をくり返している間に、外から黄巾の乱をはじめ地方豪族たちの力もはびこり、漢の威信は地に落ちた。のちに魏・蜀・呉の三国時代(西紀二二一―二六五)から晋代(西紀二六五―四二〇)つづいて六朝(西紀四二〇―五八九)といわれる混乱時代から南北朝と移り、隋(西紀五八九―六一八)へ、それから唐へと時代がかわるのだが、詩績の方は漢代になると南方の楚辞調の詩が盛んになる。従前はほとんど四言であったのが、五言の詩が成立した。
漢楚興亡の時代の最も有名な詩としては、楚の項羽(紀元前二三二―二〇二)が劉邦(紀元前二四七―一九五)の軍に囲まれ、いよいよ最後の覚悟を決め、陣中つねに連れ添っていた愛妃虞美人と最後の盃をくみかわして詠んだ垓下の歌がある。
(語釈) 垓下…楚の項羽が最後の戦いに漢の劉邦の軍に敗れたところ。騅…愛馬の名。虞…項羽最愛の妃虞美人のこと。
(通釈) 自分の力は山をも抜き、意気は世をおおうほどの力を持っていたが、武運つたなく敗戦し、乗っていた愛馬の騅も進まなくなってしまった。騅が進まないのをどうすることもできない。それどころか最愛の虞よ、一体お前をどうしたらよいであろう、と悲嘆にくれた項羽の叫び声である。
項羽
また武帝の頃、宮中に楽府が設立され、楽府体の詩が作られるようになった。武帝自身も有名な“秋風の辞”と題した詩を作っている。
虞妃
楽府
楽府とは漢代にできた詩体のことである。これは武帝の時代に楽府という音楽研究の役所を作り、有名な李延年という音楽に精通した役人を、協律都尉という最高の長官に任命して、また司馬相如などの詩文学者を多勢動員して、広く天下の民謡や詩を集め、新しく作詩させ、その詩を単に読むだけでなく、曲をつけて歌い演奏し舞をつけて舞われるようにした。ここから楽府で楽津に合わせて歌われる詩そのものを楽府とよぶようになった。
当時の詩が、書いて目で見て形の整った文字の優雅な体裁を重んじているのに対して、楽府は演奏しながら歌うものであるから、作曲しやすいように作詩され、詞を長短変化させたり、句法も一定しないものがむしろ歓迎された。詩の内容も古詩では作者自身の思想や感情を主観的に表現するものが多いが、楽府では作者の境遇とか内面的な事柄ではなく、目の前に展開する事実を客観的に描写して音楽とともに多勢の人々に同時に感動を与えようとするものである。こうして楽府は、漢王宮の宮廷芸術として大きく発展し、後漢の明帝の時代になると、次のように四大部に分けられて王宮楽になった。
一、太子楽…天神地祇宗廟の祭祀に用うるもの
一、雅頒楽…官公学寮など、公の儀式に用うるもの
一、黄門鼓吹楽:皇帝が群臣に接見、饗応に用うるもの
一、短門鐃歌楽…軍楽として用うるもの
その他、民間でも民衆の音楽詩として、これを模倣した詩歌が沢山つくられ、各地の民謡、俗曲だけでなく、長篇の叙事詩の楽府も作られている。漢が亡び、魏、晋、南北朝を経てますます流行し、楽府を(一)祭祀、(二)主礼、(三)鼓吹、(四)楽舞、(五)琴曲、(六)相和、(七)清商、(八)雑曲、(九)新曲の九種類に分けている。
ここで注目すべきは詩の舞である。楽府が生まれた王宮の行事に、音楽として詩が演奏されると同時に、宮廷舞踊として詩舞が踊られていることである。これが文舞と武舞に分けられ、日本の宮中舞楽の源になる舞踊が盛んに踊られていたこと、すなわち詩舞が早くもこの時代に盛んであったということである。
また楽府体の詩の作者として有名な人の数はあまり多くはない。魏の曹操、呉の韋昭、晋の伝去、張華、宋の顔延之、謝荘、斉の王倹、陳の後王、徐陵、唐に入って李白、杜甫、高適、苓参、韓愈、白居易、張籍、王建、元では揚

崖、日本では頼山陽が最も有名で、日本楽府というものを作っている。
楽府の詩例をつぎに示しておく
(語釈) 蒿里…山東省の泰山の南にある山の名で、この山は昔から死者の行く山とされている。聚斂…集め収める。魂魄…たましいのこと。鬼伯…死に神。踟

…ためらう。
(通釈) 蒿里という死者の山にあるのは誰の墓であろうか。魂をお墓に収めてしまうと賢人も愚人もない。死に神はどうして人に死を催促するのかしら。人の命を少しもためらい待ってくれない、と、蒿里の墓地を見て人生の無情を謡ったもので、第一句と第二句が字足らずになっているのは楽府であるからである。
つぎに漢の武帝の作った、“秋風の辞”をあげてみよう。
(語釈) 佳人…美しい人、美女。楼船…やぐらを組み上げた船。汾河…山西省の大原の近くの河の名。素波…白く立つ波。簫鼓…笛や太鼓。棹歌…船に棹しながら唄う歌、(舟歌)。
(通釈) 秋の風が吹いて来て白雲が飛び、草や木の葉が黄色くなって落ち、雁も南方へ帰って行く。このように凋落の時であるが蘭は見事に花咲き、菊も香り高く咲いている。これを見るにつけても美人(ここでは武帝につくしてくれている臣下をいう)が忘れられない。いま、屋台船を浮かべて汾河を渡って行く。川の中に船を横たえると白波が立ち、笛や太鼓が鳴って船唄がおこる。こうした歓びや楽しみが頂点に達すると、却って悲しみが湧いてくるのと同じように、少壮で元氣な時がいつまで続くことだろう、と武帝が汾河に船遊びをした時、人生の無常を感じて詠じた詩である。
漢武帝
漢建国に功績のあった韓信、張良、肅何の肖像図をあげておこう。
韓信
肅何
張良