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2.交流事業の実際
[事例1] 守門村における地域啓発活動精神障害者が堂々と胸を張って歩ける村をめざして
 
□はじめに
 守門村は人口5000人程度の山間農村です。平成6年(1994)の一般村民に対するアンケート調査では、村にある精神障害者の作業所(現在は通所授産施設)について、村民の7割近くがその存在を知り、約5割の人々が精神障害関連事業に関して、署名や寄付、講演会への参加などといった実際的な関与を行っていました。すなわち、地域啓発活動が非常に活発な村であるといえます。そこで、以下では、時間的な流れに沿って、地域に根付いていった経過を跡づけていくことにしました。
 
□家族会「またたび会」設立
 守門村は、新潟県と福島県を結ぶJR只見線沿いに位置し、山林原野が約9割を占め、平年積雪が3メートルにも及ぶ豪雪地域にある過疎の村です。昭和30年代初頭には9000人を数えた人口も、現在では5000人程度に減少しています。村の精神障害者は約90名、内30名が分裂病と推定されています。
 昭和40年(1965)の精神衛生法改正で、保健所が精神保健活動の最前線に位置づけられ、市町村の保健婦たちも精神障害者と関わりをもつようになりました。各地で徐々に地域の家族会などもつくられるようになっていきましたが、昭和50年代にはいって、北魚沼郡7町村の中で家族会のないのは守門村だけであり、管轄保健所から家族会をつくるようにとの指導もされていたとのことです。
 しかし、村の保健婦は、言われてつくったような家族会では長続きしないと考え、村内の家族を集めて勉強会を開催することにしました。村内のどの世帯に精神障害者がいるのかということは、それまで村内をくまなく巡回訪問していた保健婦たちには、明らかだったようです。会場に集まった家族たちは、村内で苦しんでいる家族がこれほどもいるのかと初めて知って驚いたとのことです。
 三回目の勉強会が終わるとき、ある家族から郡内に家族会のないのは守門村だけだという話が出て、発起人会が作られました。また、そのときに「昔の肺病が今は胸を張って堂々と歩いている。精神病も胸を張って堂々と歩けるような守門村にしよう。これを会の目標にしよう」との提案もあり、名前については、「昔、旅に疲れた旅人がまたたびを食べるとたちまち元気になって、また旅に出た」という話から「またたび会」と名付けられたそうです。
 その後、発起人たちが各地区を周り、30名の会員を集めて昭和54年(1979)11月に家族会設立総会が開催されました。
 
□啓発活動の第一歩
 当初から会の目標として「精神障害者が堂々と胸を張って歩ける村をめざす」といわれていたように、村中の人々に精神障害を理解してもらいたいという願いが強く打ち出されていました。そこで、当時やどかりの里にいた谷中輝雄さんを呼んで講演会を開催することとし、保健婦が役場を、会員は地区をまわってカンパを集め、設立の翌年昭和55年(1980)11月、村民200名あまりを集めての講演会が行われました。実に村人30人に一人が参加したことになります。チラシ作りや呼びかけなど家族会総力を挙げての取り組みであったとのことです。
 講演会は成功でしたが、何をするにも一々カンパを募っていたのでは人に頼り過ぎとの反省も生まれ、資金集めのために山菜のわらび採りを行うことになりました。とはいえ、誰もわらびの採れる場所を知らなかったため、山好きの村会議員に相談したところ、引率を引き受けてくれました。収穫は決して多くはありませんでしたが山菜加工工場に割高で買ってもらって初めて自力での資金作りができました。このわらび採りはその後も継続されていますが、参加者が60名を越えることもあり、村民との交流の場ともなっています。
 
□「またたび作業所」の開設
 講演会に多くの人が集まり、わらび採りも毎年恒例の事業となりましたが、こうした集まりの中でも家族の口から出る言葉はいつも泣き言やグチばかりであったそうです。そんな中、昭和56年(1981)、家族会の研修旅行で、従業員の3分の2が障害者という新潟基準寝具株式会社の社長渡辺トクさんを訪ねることになりました。そこで、グチや涙からは幸福は生まれないと励まされ、帰りのバスの中でみんなが口々に「強くなろう」と誓ったといわれています。とはいえ、弱音やグチを吐くことから実際どのように前進すればいいのかはまだわかっていませんでした。
 昭和58年(1983)4月、渡辺トクさんから村の保健婦に電話が入り、仕事をまわすから村でも作業所をつくりなさいと勧められました。しかし、家族は尻込みするばかりで、家族会会長のなり手さえもいなくなってしまいました。そのとき、精神障害者本人の一人が「俺でよければ会長になる。作業所も2年ぐらいなら責任を持つ」といってくれ、全員拍手で賛成し、家族会の会長を本人が担うことになりました。
 その後は、順調に話が進み、翌5月30日には「またたび作業所」が開設されました。この作業所は保健婦を始め、家族やさまざまな協力者に支えられながらも、結局は専任の職員や指導員をおくこともなく、作業所の運営や賃金の計算などもすべてメンバーが行い、作業場所を移動させるなどさまざまな困難を乗り越えながら、自然にできた役割分担のもとで自主的に運営されていきました。
 
□家族勉強会の開始
 平成元年(1989)、10周年を迎えたまたたび会でしたが、当初の「堂々と胸を張って歩ける村をめざす」という目標が見えなくなってきた時期でもありました。そこで、翌平成2年(1990)7月、家族会の研修旅行を「守門村の心の健康を考える集い」とし、協力者や会員でない人々をも誘って総勢36名で国立犀潟病院のPSW酒井昭平さんを訪ねました。
 そこでの前向きな希望の持てる話に大きく感銘を受けた一行は、酒井さんの話をもっと聞きたいという願いから、さっそく同じく7月の末には酒井さんを守門村に招き、「障害者の住みよい村にするための勉強会」を以後ほぼ2ヶ月に1回のペースで開催することにしました。
 この勉強会には、家族だけでなく、作業所のメンバー、保健婦なども参加していました。会の目的としては、まず、家族や本人から偏見をなくすことが重要でしたが、メンバーたちにとっては、自分自身を理解するためと他の仲間の具合が悪くなったときの対応の仕方を学ぶことも目的とされていました。
 続く平成3年(1991)6月には、村民対象の「心の健康講演会」が開かれました。このときも当時人口6000人弱の村で220人もの人々が集まりました。この講演会の呼びかけに際しては、作業所のメンバーたちが、自分の友人・知人に直接電話をして、自分が心の病をかかえていることを話し、「今度自分たちのこと(心の病)について話をしてもらうから一緒に聞いてくれないか」と頼んだとのことです。まさに「堂々と胸を張って」という目標が少しずつ形になってきたといえます。
 
□精神保健協力者養成講座
 こうして家族勉強会を重ねるうちに、参加者から、たしかに自分たちがこうやって勉強会をすることによって気持ちが楽になったり、今までの自分の対応の仕方が間違っていたと気づいたり、病気について知ることはできたけど、はたしてそれだけで患者さんたちが堂々と胸を張って歩ける村になるのだろうかという意見が出ました。そして、自分たちだけが勉強するのではなく、もっといろんな人たちにも勉強してもらわなければということになりました。とりわけ、村の「おもだち(主立ち)(三役や議員、区長やお金持ちなど村で重要な役割をとっている人々)や役場の人たちにも自分たちのことをわかってもらいたい。しかし、そうすると自分たちのことが広く知れ渡ってしまう……」といった葛藤も生じました。
 議論を交わした結果、やはり自分たちだけの問題にしていては何も解決しないという意見が受け入れられ、年に3回ぐらいのペースで「精神保健協力者養成講座」を開催することになりました。
 平成4年(1992)7月に第1回が開かれ、59名の出席者がありましたが、その顔ぶれを見てみると、村長・助役・教育長といった村の三役を始め、村会議員14名、民生委員7名、母子保健推進委員10名、健康づくり推進委員2名といった地区の役職者も多く、課長3名、村職員4名、保健所1名、他町村保健婦4名など行政関係者も少なくありませんでした。同年10月に開催された第2回目は大雨のために、また12月の第3回は大雪のため、それぞれ28名、21名に減少しましたが、逆にそうした悪条件のもとでもこれだけの人々が集まったのだともいえます。
 講座は、当初、酒井さんが中心的に話題提供するもので、第1回目のテーマは、精神障害についての総論でしたが、第2回には、回復の過程と守門村の精神保健活動について、第3回はリハビリや福祉に関する社会資源の紹介もされています。
 こうした講座を重ねていく中から、患者さん本人やご家族もこの場で自分たちの声を直接聞いてもらいたいと思うようになり、参加するようになっていきました。また、参加者の中からも「守門村にこんなに苦労している人悩んでいる人たちがいるとは知らなかった」「自分たちにも何かそういう人たちに対してできることはないだろうか」という声も上がり、平成5年(1993)12月に開かれた第6回の講座において、助役や総務課長のいる前で、またたび会を支える会を結成してはどうかという提案がなされ、平成6年(1994)2月に協力者と家族49名が一堂に会し、「またたび会を支える会準備会」が結成され、村の各地区に支える会の役員をおくことが決められました。
 なお、この講座は精神科医や保健所長などを講師として現在も継続しており、平成9年からは一般村民にも参加を呼びかけているため、多いときでは150名を越える参加者があるとのことです。
 
□一般住民対象アンケート
 こうした地道な活動が積み重ねられていく中、平成6年(1994)5月に守門村の一般住民を対象とするアンケートが実施されました。9世帯に1世帯の割合で無作為に抽出された160世帯に配布され、119票(74%)回収されています。
 回答者の内訳は、男性53名、女性66名。年齢は27〜79歳と幅広く、平均年齢は54-1歳でした。職業は、農業33%、会社員27%、主婦19%、その他です。
 アンケートの結果、まず、守門村の精神障害者関係の団体や研修会等について全く知らないと答えた人は24名(20.2%)に過ぎないことがわかりました。逆に言えば、すなわち、村民の約8割の人々が守門村における精神障害者関連団体や研修会のことを知っていたということになります。複数回答での比率をあげると、「またたび作業所」については66%が、「またたび会」についても61%が知っていました。家族勉強会については16%、協力者養成講座についても9%の人々がその存在を知っていました。
 さらにまた、またたび会やまたたび作業所に対して協力や援助をしたことがあるかという問いに対して、「全くない」という回答は39%で、無回答の10%を合わせても49%にすぎないことも判明しました。すなわち、村民の約半数の人々は何らかの協力や援助を実際的に行ったことがあるということになります。
 その内容は、「文化祭などでチケット購入」(23名)、「寄付・カンパ」(11名)、「牛乳パックの集荷」(9名)、「講演会参加」(9名)、「署名」(8名)、「品物の寄付」(8名)から、「わらび採り」「相談に乗った」「薬草の採取」「作業所の掃除」など多岐に及んでいます。
 そして、精神障害者とその家族を支える会(またたび会を支える会)が結成された場合の対応として、「積極的に加入したい」と答えた人が20%存在し、「会の目的や事業、会費などを見てから決めたい」と前向きに検討するという人が52%でした。すなわち、7割以上の人々が好意的な回答を寄せていたということになります。
 
□社会福祉法人化
 平成7年(1995)、老朽化していた村の「医療センター」を、新しく建設した「健康センター」へと移転することになりました。そこで、またたび会は、平成6年(1994)1 0月、空くことになる医療センターの建物を使わせてほしいと142名の署名を集めて村長に陳情に行き、前向きに検討するとの回答を得ました。加えて、同年12月に酒井さんが犀潟から守門村に居を移して精神の仕事をしたいと決意してくれました。
 その後、村では、空いた施設を貸すことおよび改造費を負担することは了承されましたが、毎年の運営費までは補助できないとのことでした。そこで、急遽平成7年(19 95)4月の家族会総会で社会福祉法人化が決議され、通所授産施設を開設することになりました。しかし、県の指導により守門村単独での法人化は認められず、郡内7町村合同での法人化ならよいということになり、平成7年(1995)7月北魚沼郡町村会の席上、守門村村長の説明に基づいて7町村での法人設立が了承されました。
 平成8年(1996)4月1日、通所授産施設「またたびの家」およびグループホーム「またたび寮」がオープン。同年6月19日社会福祉法人北魚沼福祉会の設立が認可されました。
 その後、平成11年(1999)8月には地域生活支援センター「ゆきぐに北魚沼」が事業を開始し、平成12年(2000)4月には法人施設として認可されています。また、同年7月には、小出町に支援センターのサテライトとして「わかばハウス」がオープンし、平成13年(2001)4月には小出町でもともと活動していた作業所「わかあゆ社」を通所授産施設として法内施設化しています。
 
□「私は、この村が好きです」といえる村
 平成9年(1997)6月、新家連大会のシンポジウムは、守門村の取り組みを家族・保健婦・協力者・当事者・担当課長といった立場からそれぞれ報告するものでした。その中で、自主運営されていたまたたび作業所時代から14年間利用してきたというメンバーは、報告の最後にこう断言しています。
 「私はこの村が好きですし、この村にずーと住みたいです」と。
 このシンポジウムを取り上げた「新潟日報」紙は、社説の中で「こころ病んだ人が、これだけ言い切れる村も、ほかにあまりないだろう。弱者と言われる人たちが元気に暮らしているところこそ、住みよい地域である。モデルにしたい地域づくりだ」と絶賛しました。
 村の人間関係は、都会からは想像もできないほど濃密です。またたび会のある家族は、全国紙のインタビューに答えて「隠しておいても、どうせ知れること、村の人にわかってもらった方が、自分も楽になる」「わかってもらうと、人ってものは、ありがてえもんだよ」と話しています。また、協力者の一人も一住民として、「病気があろうがなかろうが、みんな近所の人であり、同じ村に住む人である」と応えています。
 年間のうち、4〜5ヶ月は雪に閉ざされてしまう土地柄で、地域の人々が互いに助け合って生きていかなければどうしようもないという考え方が隅々まで行き渡っている地域なのだろうと思います。そうした濃密なネットワークを地道に活用してきた保健婦さんをはじめとする関係者の努力こそが、「この村が好き」というご本人の言葉に実っているのだと言えましよう。
 
【参考資料】
・五十嵐松代・酒井昭平(1992)「精神障害者が堂々と胸を張って歩ける守門村をめざして」 「公的扶助研究」147号
・五十嵐松代・酒井昭平(1995)「守門村の実践から」「精神障害と社会復帰」36号
・山之内宏(1999)「この村が好きだから」 (私家版)








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