「HANGAR FLYING」
レーシングフォト・クラブ 永井 幸雄
新しい年明け早々に熊本でセスナが墜落し、さらにマイアミでは無免許の若者が操縦練習中のセスナを無免可で離陸させ、ビルに突っ込むという異常な事故を起こした。おまけに同じ日にアメリカではカリフォルニアとコロラドでやはり小型機が墜落事故を起こしてしまった。
思い出すのさえ忌まわしい昨年のあのテロ。そして年明け早々に起こった日本とアメリカでの航空機による事故。
この報道を見て、ああ今年もまた航空事故が多発してしまういやな年になってしまうと思ったのは、恐らく僕だけではなかったはずだ。
ところが不思議なことと言って良いのか、昨年の世界中での航空事故による死者数は、第2次大戦後の最低を記録したという報告がなされた。本当かなとにわかに信じられないのは、しつこいようだがやはりあのテロから受けたショックがあまりにも強烈で、その他の全ての事柄が吹っ飛んでしまったかのようだからだ。でも最低だったと言うのならば、喩えは違うかもしれないが、地獄に仏と言う感じだろうか。
新年を迎えた一月十五日にこれを書いているのだが、ちょっと航空史を調べたところ、二十二年前の一九七六年一月十五日に、英国航空がコンコルドの一番機(量産六号機)を受領し、その六日後の一月二十一日にエール・フランスがパリのドゴール空港から、英国航空はロンドン・ヒースロー空港から航空史上初の超音速旅客機の定期便を就航させた。
航空史上初の超音速旅客機としては、当初のソ連が一九六八年十二月三十一日(ギリギリの六十八年)にコンコルドの亜流「コンコルドスキー」だと、これも当時の西側から散々悪口を言われたツボレフTu−一四四が初飛行している。コンコルドのほうは、それに遅れて翌六九年三月二日に初飛行した。
就航から二〇年目にして、コンコルドは初めての墜落事故を起こした。これはコンコルドの開発からも含めて初めてのことだった。
その原因も機体の老朽化が当然のように懸念され、そのために飛行停止となってそのまま全機リタイアと思われたが、離陸中にメイン・タイヤがバーストして、その破片が機体下面の燃料タンク部を破壊、大量の燃料漏れからの火災を引き起こしたためとの事故原因が究明され、当該部分を含めての補強と改修及び改良されたタイヤを装着するという対策を施して、再び耐空検査を得て就航が開始されたのは記憶に新しいし、飛行機ファンにとっても嬉しいことだった。
なんたって現在民間人がマッハを体験できるのはコンコルドしかない。それもマッハ1ではなくて、「マッハ2超」が体験できるのだから、もちろんお金と時間が必要なのは言うまでもないが。
ちょっと前言を翻しちゃうが、米ソ軍拡華やかしき頃に、最後の有人戦闘機として配備されたロッキードF−104。航空自衛隊でも使用されたが、これが現在数機がアメリカで民間登録されて飛んでいる。しかも個人所有で。飛べる資格はビジネス・ジェットのレーティングがあれば大丈夫だから、コンコルドに乗る費用よりちょっとだけ余分の懐具合と、同じ位の時間を用意すれば、自由にマッハ2超の世界が思いのままに満喫できる。
いつものように話がそれてしまったが、コンコルドが計画されたのが四十六年前の一九五六年。「調和」と名付けられ英仏2カ国の協同で正式に開発が始められたのは六十二年十一月。当時で一兆円を超える開発費をつぎ込んで誕生したコンコルド。量産型十六機。原型を含めて一機種のみの全二〇機。”民間”航空史上まれな一大プロジェクトにより誕生した超音速旅客機は、ユーロにより統合されたヨーロッパの先駆けであったのだ。