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「HANGAR FLYING」
レーシングフォト・クラブ  永井 幸雄
 
 あの忌まわしい同時多発テロから、もう2ヵ月も経ってしまったかという時間経過よりも、もっと速いかのようなペースで、アメリカ軍によりウサマ・ビン・ラディンなる人物を中心としたアフガニスタン国内に潜んでいるアルカイダヘの攻撃の開始。
 これに前後して、フロリダ州の新聞社に端を発した炭疽菌を使ったバイオ・テロ。貧者の核兵器などと、おぞましい形容詞で表現される細菌を弄んで造り出した、大量殺りくのための微細粉末。
 ニューヨークの全米3大テレビ・ネットワークが襲われ、次には首都ワシントンDCの上下両院にも及んだ。その間には、誤報だったが僕が行っていたリノ・エアレースのスポンサーでもあった、ネヴァダ州リノにあるマイクロソフトの関連会社、シエラ・パシフィック・コミュニケーション社の名まで出たのには、かなりビックリさせられた。
 語をあの日からのリノ(エアレース)に戻そう。テロが知らされたときから、全ての航空機の運行は禁止された。レース機だけでも200機を超える機体が集まっているリノ、ステッド飛行場も当然に1機たりとも飛ぶことは許されない状態になった。
 飛行場の西端にあるフォーミュラー1とバイプレーンに割り当てられている大きなハンガーには、3台のテレビが持ち込まれ、多くの人々がその前に座り込んで事件の経過を注視していた。ある局のニュースでは次のような事件を報じていた。「WTCにとっては、まるでデジャブのようだった…」と。これはもちろん1993年2月にテロリストによる爆破事件を指し、さらにその時に被害にあって入院した男性が、今回も再び負傷して、同じ病院に収容された…。
 ホテルに戻り、ツアーの状況などを聞こうと東京へ電話をしたが、回線が混み合っていて、夜中になってやっと連絡がとれた。9月11日は夜になって空は真っ黒な雲に覆われ、大粒の雨と激しい雷に襲われた。滅多にない天候の変化が、この日を象徴しているかのようだった。
 翌12日。ホテルに居てもしょうがないので、ステッド飛行場へ。この日も当然のようにミリタリー関係を除いては飛行禁止のままだ。しかしエアレースのスケジュールは当初の予定通りに開催されるというが、ミリタリーのデモは全てがキャンセルされたとの発表があった。しかし、ピットやハンガーでは、いつもと変わらずに機体整備などに勤しんでいた。
 ところどころに秋の気配を告げるような、ウロコ雲が浮かんでいる見渡す限りの大き過ぎるリノの青空。いつもだったら必ず飛行機が飛んでいるのが当然なのに、ただの1機も飛ばないしエンジン音すらしない。まるで一OO年も時間を遡って、ライト兄弟の前の時代にいるかのようだ。
 リノ・エアレース・ツァーの先発メンバーは、カナダ・バンクーバーで降ろされ、最終目的地はアメリカなので、人間だけは特別に陸路グレイ・ハウンド・バスで目的地へ向かえる事となったが、バゲッジの取り出しは出来ないということで、着のみ着のままで2日後にリノへ到着したが、バゲッジは結局帰り着いた成田で受け取る羽目になってしまった。
 リノ・エアレース主催者はスケジュール通りの開催を押し進めていたが、未曾有のしかも飛行機を使った犯罪ということを考えたら、その開催は不可能という結論になるのは当然だろう。こうしてエアレース史上最長の連続開催回数は、昨年の第37回をもって一区切りとなってしまった。
 そして14日の金曜日には、グランド・スタンド前で、哀悼のセレモニーが、たくさんの星条旗と何度も聞いたゴット・プレス・アメリカや国歌に包まれて挙行された。








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