「もく星号の真実(13)」 市川 武男
前回述べたように、このレンジ・ビーコンはAとN符号で構成される幅三度のコースビームが重要な役目を果しているわけで、当時のアメリカC AB発行の軍民共通のフライト・チェック・マニュアルでは、レンジ・ビーコンのビーム幅の許容度についてプラス・マイナスの一・五度としているので、現実には最大四・五度から一・五度という事であり、又その検査方法についてもコースビームに直角に縫うように飛行して幅を確認することなど厳しい点検が行われていたようです。
ですからこのレンジ・ビーコンで構成される航空路の安全BUFFER空域についても当然の事ながら他のNDBとは異なる別の基準が定められていた筈であり、或は当時のNDB空路のBUF FER10浬よりも小さな値が定められていた可能性もありますが、残念ながら、当時のアメリカ空軍のIFR空域設定基準が入手出来ないため詳細は不明です。
所で当時ニホンの伊豆大島に設定されていたレンジ・ビーコンの四本のビーム方位が気になりますが、昭和29年の運輸省航空局の資料では、98度と174度、278度及び354度となっており、果してもく星事故の昭和27年頃も同一方位であったか否かは分りません。当時アメリカ占領軍の資料は所持することも、写し取る事も厳禁されていましたから、当時アメリカ極東空軍が毎月発行していたFACチャート、即ち週刊誌大の黄色い表紙のチャート集など現存している筈はありませんが、私のかすかな記憶では、XA・PQ間にも一本のあのくさび形のブラシのひげが描かれてあったような気もするのですが…
しかしこのXA・PQ間にレンジコースが設定されていたか否かは大変重要な問題であり、何とか是非確証を得たく考えております。というのは後でも詳しく御説明しますが、このビームコース存在の有無は、前回にも少しふれたATCでのライトサイド間隔との関連でも重要となります。
この右側間隔とは前回にも述べた通り、航空機をビームコースの各右側を飛行させる事によって高度変更等をさせるAT C技法のひとつですが、勿論ビームコースがなければその様な処置はとれないという事であり、問題解決の重要な鍵となるわけです。
東京レーダーは、昭和31年に通信回線の事故から横田に移転して東京ターミナル・コントロールセンターとなるのですがその直後にニホン全国の航空路が大改訂されているので、昭和27年頃の東京レーダーの実態は殆ど不明のままです。併し当時の関東空域でのAT Cについて或る関係者は次の様に話しています。
「当時、関東空域に設置されていたレンジ・ビーコンの内、このライトサイド間隔が適用されていたのは、東京レンジ・ビーコンの北側コースビームだけであった」ということのようです。
とすれば、やはり大島レンジではこのライトサイドは適用されていなかったのでしょうか。
このレンジ・ビーコンの右側間隔について、五〇年代のアメリカのマニュアルに興味ある記事が記されていました。
それは当時のアメリカCABの航空規則のCA R60には、航空機がIF Rで航行する場合には、航空路中心線の右側を飛行しなければならないというものでした。
御存知の様に当時のI CAOの国際標準規定でも、IFRで航空路を飛行する際な中心線を飛行する事が定められていた筈です。では何故アメリカでは中心線右側なのかこの疑問は、もう既に前回御説明した通り、当時のアメリカの航空路が殆どレンジ・ビーコンで構成されていたからであり、そこには右側間隔の問題が深く関わっていたと考えられます。従って当時のパイロットは、全て航空路を飛行する場合はその中心線の右側を飛行する事が慣習化されていた筈であり、8000時間も飛行していたもく星号の機長も、又例外ではなかった筈です。
(つづく)