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基調講演 「「観光まちづくり」の今日的意味について」
国土交通省総合政策局 観光部企画課長
大口 清一
 
 ただいまご紹介あずかりました国土交通省総合政策局観光部の企画課長をしております大口と申します。
 泉佐野市は私にとっては大変思い出深い土地でございます。ちょうど今から7年ぐらい前に関西国際空港というところに、関西国際空港が開港する前後、3年間お世話になりました。そこで空港というのでしょうか、あれも一つの町なんですけれども、それが命を与えられる瞬間に居合わせたということで、そういう意味ではこの泉佐野という土地もその時に犬鳴山を眺めながら、夜遅くまで仲間と一緒に仕事をしたということを覚えております。
 今日は、実は朝、東京を出てこちらにまいったのですが、電車の中から見る犬鳴山とか、ゲートタワービルとか、あるいは関空の全体像、そうしたものを含めて、「ああ、彼らも一生懸命ここにまだ生きて頑張っていてくれるな」というふうに思いました。
 そんなこともございまして、今日の私のレジメを見ていただきますと、「「観光まちづくり」の今日的意味について」ということで、これは若干大仰にタイトルを書いてございますが、言いたいことはたった一つなんです。それをいろいろなことを言いながら論じているペーパーになっておりますけれども、言いたいことはたった一つなんです。
 要は、私どもの一生というのは、ある意味ではあっという間に終わってしまう、非常に限りがあるというところが、まず私は原点ではなかろうかなと思います。たった一回こっきりのこの人生の中で豊かに生きるということは何なんだろうかと、その豊かさというのは果たしていろいろな物を買えるとか、あるいはいい家に住むということだけで満たされるものなんだろうかというところが、一つ、問題提起の出発点になるのかなと思うのであります。
 レジメの一番最初に、「社会の表情の急速な変化」とございますが、皆様方も多分同じご経験をお持ちだろうと思うのですが、今日、ご出席の聴衆の中に横浜市の職員の方もおられるようですが、私は生まれたのが横浜でございます。しかし、私が生まれた頃の横浜というのは、今も一部そういうところが残っておりますが、蛙の鳴き声の大合唱がちょうど今頃から6月、7月の初め頃まで聞こえるような、そうした田園的な要素も残し、それから東京に通うサラリーマンの方もおられ、それからまさに復員されてきたようなおじさんもおられ、いろいろな風景が入り乱れておりましたけれども、どこか活気がございました。
 その中で、私は蛙の大合唱とか、田んぼを歩いたり、山に行ったり、いろいろな経験を積んだわけでありますけれども、どうも最近、そうした風景が東京の都心から横浜を過ぎて平塚に来るまで、のべたんでみんな同じ風景になってきているのです。それがたまたま私の母方の田舎に行く時は、私は今でも覚えているのですが、まず言葉が変わってくるわけです。私が使っている言葉と違う言葉を周りがしゃべっている。それから食べ物も全然味が違う。味噌汁の味も違う。それから屋根の色も違ってくる。そういう経験があったわけでありますが、今日も新幹線の中でうつらうつらしながら車窓を眺めておりますと、どこまで行っても屋根の色も、それから家の形も個性がなくなってきたのではないかと、そんなようなところが社会の表情の急速な変化ということで、実は触れさせていただいているところであります。
 特に今の世の中というのは、大量生産・大量消費、そして自由競争ということで、誰を疑うことなく自由競争というものがすべて善であるという出発点に立っているかと思うのですが、自由競争というものがある意味では心のバランスによって支えられていないと、大きな誤謬がそこに生じてくるのではなかろうかというのが、今日、一つ触れさせていただきたいところなのです。
 例えば人間の社会というのは、いろいろな発明が時間の節約というものを支えてきているのかなと思います。蒸気機関車の発明から今や自動車とか、いろいろなものがあります。飛行機もありますけれども、そうした交通で移動する手段の進化というか、進歩というのはまさに時間の節約という形で私どもの生活を便利にしてきた。それから、洗濯機、冷蔵庫をはじめとしていろいろなものが我々の生活を便利にしてきている。しかしながら、便利さというものがどんどんどんどん行き進めていくと、我々人間の表情さえもだんだん同じにしてきてしまっているのではなかろうかなという一つの危機意識みたいなものが今を生きる人たちの中に、どこかに芽生え始めているのではないかと、私はこう思うわけであります。
 2つ目の「生老病死」というところにいきますと、かつて私が小さい頃の町というのは、病床に伏せるおじいさん、おばあさんがおられたり、あるいは当時はまだ結核の方がおられましたけれども、家で闘病をなさっている方もおられました。そういうことで、病を持った家族を抱えた家族の姿というものを我々は身近に見てきたわけです。亡くなっていく姿を見、亡くなった時には冷たくなったおじいさんに触れ、それからお葬式の時にはみんなで悲しみながら野辺の送りをした。まさに近くの墓地までみんなが歩いて死者と共に一緒に歩んでいく。
 そうした営みがあったわけでありますが、現代というのは生老病死という、ある意味では一回こっきりと言ったその一つの人生にすべて付きまとう要素であるはずなのに、その生老病死がどうも社会の表の表情から分けえられていくというのでしょうか、例えば病を持った時にはすぐに病院に入院してしまって、亡くなる時もほとんどの方が病院で亡くなって、死んだ後は家の近くの墓地かというと、実は遠く隔てた公園墓地というような体裁の、ある意味では郊外型の墓地になってきている。
 かつて私は中国地方の山間を列車で旅をしたことがございますが、その時に農家が出てきて、その農家のたたずまいの横に庭があって、さらにその横に非常にきれいに整理された先祖代々の墓地が一緒になったような、そしてその周りに田畑が広がった、そういう風景が次から次へ広がっていた記憶があるのですが、そうした風景が日本の各地からだんだん失われつつあるのかなと、こう思うわけであります。
 なぜこんなことを、今、観光というところで触れているかというと、実は生老病死というものも含めて人間の喜怒哀楽というものが支えられているとすれば、「人生豊かに」と言った最初の課題の中には喜怒哀楽ということ、喜びというのが高見にあるとすれば、悲しみというのは本当に低いところにあるとします。そうすると、この落差が大きい、面積が大きいほど実はその人の人生は豊かなんではなかろうかと、私はこう感じるわけであります。特に悲しみというのが逆に人生を豊かにしてくれている部分もあり、そういう意味から生老病死が含まれている風景というのは、そういう意味では我々の体験というものを広げてくれている、大変大事な要素ではなかろうかと、こう思うわけであります。
 例えばパリに行きますと、墓地もある意味では観光の名所と言ったら変なんですけれども、いろいろな有名な方々の墓地には観光客が、あの人が眠っているところはどこだろうかというので捜し当てるような、そういうツアーもなさっておられます。
 それから、私が忘れられないのが、たまたまリスボンという町に家族で行くような機会がありまして行ったのですが、その時にリスボンの町は坂の多い町ですが、家族でその坂を歩きながら疲れ果てて、ふと見上げた時に、上からおばあさんがにこにこしながら手を振ってくれたわけです。私ども家族も4人でみんな一斉に手を振ったわけでありますが、そんな風景がいまだに我々の心に残るというのでしょうか、リスボンというのは確かにファドも聞いたし、いわしの味もおしいかったように記憶していますが、いまだに覚えているのはそのおばあさんが手を振ってくれた一コマなんです。これが何とも言えず私の、あるいは私の家族のリスボンの旅行の大きな一ページを飾ってくれている。
 そんなことから、観光というのはどうもディズニーランドとか、USJとかあります。それから、パリ、ロンドン、ローマもあります。それから大阪、ソウル、さらにはシドニー、そういう大きな都市の魅力もあります。そこでいろいろな物を買うという楽しみもあります。しかし、やはりさりげない思い出というものが意外と我々の人生でどこかでだんだんふくらんで大きくなってくるというものが観光の観光たる真髄ではなかろうかというふうに、私は思えてなりません。
 そんなことから、レジメの「人間と観光」というところにも触れておりますけれども、人間というのはいずれは死ぬ。そうすると、やはり生きている間にいかに自分の世界、自分の心の宇宙を広げられるかということが人生の豊かさに直接結びついてくるのではなかろうかと、こう思うわけであります。そういう中でやはり人間の漂泊心というのでしょうか、あの山の向こうは何なんだろうかと、太古の昔から人間というのは多分ほかの土地に憧れていたのではないかと思うのです。それで自分と違う、自分の土地とは違う、そうした "something new" というものを求めて触れた時に、こういうものもあるのか、こういう人もいるのかということで、大きな宇宙観が広がっていったのではなかろうかと、こう思うわけであります。
 そんなことから今の現代においても、やはり人間の根源的なところでは、太古の人間と変わらずに "something new" というものが常に憧れを持っているのではなかろうかと、こう思うわけであります。
 次に、レジメの「「我」を出すことについて」ということがありますが、今、勤務している私の役所で一つおもしろい現象があります。それは今の若者がいわゆる「我」を出す時代だと言われていながら、入ってくる若者がどうもみんな同じような行動パターンをとり、同じような服を着て、同じような物言いをすることに、若い連中はもう少し「我」を張ってもいいのではないかと思ったのが、まずこの「「我」を出すことについて」という一つのテーマなんです。
 それで、限られた人生の中で、こういう言い方をすると語弊があるかもわかりませんが、あくのある人間ほど私にとってはおもしろい存在はないのです。平々凡々というのでしょうか、すべて「イエス」と言われてしまうと、私にとってもあまり刺激がない。しかし、ある程度議論をふっかけてくる、あるいはいろいろな反対のもののとらえ方を提示してくる、そういう人については「おもしろいことをおっしゃるな。こういう考え方もあるな」ということで、私の好奇心を満たしてくれる部分がございます。それはとりもなおさず人間ばかりではなくて土地についても言えるのではなかろうかと思うのです。
 私は、先ほど申し上げたように、たまたま大阪に3年間いましたけれども、その時に関西圏というものに住むという形で初めて触れました。その時に、住んでみて初めて関西圏のいろいろ奥深いところもわかるようになった気がしますけれども、その時にやはり関西弁を含めて関東とは全く違う言葉がある、違う食べ物がある、それから違う思考がある、違うギャグがある。その違うというところが私のこの3年間を大変豊かにしてくれたというふうに思うわけです。それはやはり大阪、あるいは関西圏というものがいまだに我を張っているというところが大変大事なところだし、日本という国にとっても大変大事なところではないかと思うのです。
 そんなことから「我」を出すということについて、もう少し町というものについても「我」を出すようなまちづくりというものがあっていいのではなかろうかと、こういうふうに思ったわけであります。
 ちょっと横道に逸れますが、日本古来の美学というのでしょうか、例えば茶道とか、華道とか、書道とか、あるいはスポーツでも柔道とか、「道」がつくような、修業というのでしょうか、ある意味では美観というものを体の中にしみ込ませるというのでしょうか、そういう修業の伝統みたいなものがございます。その修業というのは柔道でも華道でも茶道でも同じだと思うのですが、まず型を習うのです。型を習って、型を身につけた。しかしながら、最後は型からまた身を離すというのでしょうか、型から逃れるというのでしょうか、自由度が出てくるという、何かそういうところが一つ、共通項としてあるのではなかろうかと、こう思うわけであります。
 その時に日本のいろいろな町についても、やはり型というのはあるのではないかと思います。やはり人間社会というのはそういう点ですべて時間という中でろ過されながら変わっていくものだと思うのですが、しかしながらろ過されても、され尽くされないような型というものが、我々は先祖から営々と引き継いでいるものがあるのではなかろうかと思います。さっき申し上げた言葉というのも、実はそういう中の``one of them"で、やはり関西弁というのは、長いことここに住まってきた人たちが親から子、子から孫、ずっと引き継いできたような型だと思うのです。そうしたものを身につけて、今、関西弁を話している人は関西弁という型を意識しながらしゃべっているわけではなくて、型を身につけて、実は自由にしゃべっている。そこが大変大事なところで、町というのも何か先祖から引き継いでいる型があって、しかしその型を逃れているような自由度がある。ある意味ではそこを訪れてくる観光客にも開かれている。そういうようなところがこれから「我」を出すという中の構造として大事な部分ではなかろうかと、こう思うわけであります。
 それから、5つ目に、「現代技術との調和を求めて」というふうに書いてございますが、今、ITの時代と言われます。それで私の役所の者もほとんどの者が携帯電話を持っていまして、それから仕事もパソコンで、メールでかなりの部分を処理するようになっております。
 先ほど申し上げたように、人間の機能をどんどん外部化してくる。足の機能を例えば鉄道とか、バスとか、マイカーとか、飛行機とか、そういうものに代替していかに遠くにいくか、それからいかに早く行くかということをやってきております。いよいよ脳の部分を外部化しているというのでしょうか、インターネットというのはある意味では自分たちの口、目、そして脳の考えるという部分を外部の道具に託しながら世の中を広げていくという段階に入ってきているわけですが、そのメリットもあるけれども、またデメリットもあるということをよくよく見据えながら我々は今という時代を生きる必要があるだろうと。その時に、観光というものと現代技術というものをやはりうまく生かしていく知恵が必要ではなかろうかなと、こう思うわけであります。
 例えばよく生かしている例として、私は今の観光の仕事に携わる前に、日本の離島航路の行政に2年間携わっておりました。日本には7,000の島がございます。7,000のうち、425の島に人が住んでいます。それでその425の人が住んでいる島のうち、さらに320ぐらいの島にいわゆる定期船の航路がございます。つまり日々、本土、つまり本州、四国、九州、北海道、あるいは沖縄、そうした大きな列島に行くための定期航路が320ぐらいの島には張りついているわけでありますが、観光客をそういう島に呼び寄せたいと思ってもなかなか来てくれません。
 ところが、おもしろい話なんですが、ある島の小学校、中学校にインターネットが入りまして、メールである東京の小学校、中学校とメールの交換をやったそうです。そうしましたら、メールの中で「僕の島はこんな島です。夏になると空には満天の星が輝いている。そして島の海岸べりには露天風呂があり、その露天風呂につかりながら夜空を眺めていると、流れ星が幾つも行くんだ」というようなことをメールで書いたらしいのです。そうしましたら、都会の子供たちが親にぜひともあの島に連れていってくれというふうにせがんで、とうとうある夏休みの時期、その島は都会の子供たちが連れてきた家族で民宿までいっぱいになってしまったというエピソードがあるそうです。
 こういう例はまさに旅行会社が仲介しているものではない。まさに人と人のコントラクティングというのでしょうか、ご縁、あるいはえにしがまさに転がった結果、そういう現象、結果が出てきたのです。そのご縁が出てきた一つのツールが、今、現代社会を変えようとしているIT技術である。だからIT技術によってある意味ではいい出会い、いいめぐりあいが演出されたというふうに私はとらえたいと思うのですが、それはいい例だと思います。
 逆に、IT技術には本来人間に必要な間というのでしょうか、誰とも音信が取れないような、まさに自分がもう宇宙の一員でしかあり得ないという時間が本当は必要だと思うのです。ところが、今の時代というのは携帯を持っていれば常に誰かとつながってしまう。そのつながってしまうというのが、さっきも「我」を出すということがありましたけれども、果たして人間の存在にとっていいことなのか、悪いことなのか。それはよくよく各個人が見据えながらIT技術というものを取り込んでいく必要があるだろうと、こう思うわけであります。
 それから、最後6つ目に「観光まちづくりに当たっての秘伝」と書いてあります。ちょっと思わせぶりな「秘伝」という言葉、私は大変大好きな言葉でございます。先ほどの日本の伝統芸能もすべて秘伝、口伝と称し、最後の最後は誰も教えてくれない世界、しかしながらそれが伝わってしまうおもしろさというのでしょうか、観光まちづくりというのもある意味では、西村先生が大家でございますけれども、多分西村先生も「最後の最後はそこはあなたが考えなさい」と、こうおっしゃる部分があるのではなかろうかと、私は思っているのです。実は最後の最後、観光まちづくりというのは、その地域に住む方々の知恵そのものではなかろうかと思うのです。
 したがって、あとはいろいろなご縁を頂戴しながら、そのご縁を総合的に結集して、先祖代々からのいろいろ引き継いでいるものも結集して、そこで「我」を張りながら、最後は何が自分なのかということを突き詰めるような、そういう地味な作業が本来、あるのだろうと、こう思うわけであります。
 私、もう二十六、七年、勤めてきますと、ある程度職場の雰囲気というのでしょうか、そういうものが入ってすぐに直観でわかるような年代になってきてしまっているのでしょうけれども、一生懸命プロジェクトに取り組んでいる時の職場の雰囲気というのは、これは肌でわかるのです。それは時間がどうのこうのではないのです。一生懸命プロジェクトに取り組んでいる時の職場の全体の意思みたいなものが、そこに醸しだされてくるという、そういうような雰囲気があると思うのです。実は町というのも何かそんなものがありまして、何か町全体が一つのベクトルに向かっているというのでしょうか、何か意思を持ったようなもので動かされる時には、生き生きとした、そこの町に住んでいる方々が何か生き生きと映るのではなかろうかと思うのです。職場でもそうですが、一生懸命働いている人間、その人たちがいる限りその職場は大変魅力のある職場に映ります。ほかから来たお客様がやはりほめます。そういう時、私は思うのですが、観光まちづくりというのも、一生懸命取り組んでいる人がいる限りその町というのはやはり魅力的に映るのではなかろうかと、こう思うわけであります。
 日本で観光まちづくりという一つの切り口で見た時に、成功しているというふうに言われている町、村、そうしたところはやはり一生懸命生きている、あるいは一生懸命取り組んでいるという、その一生懸命さみたいなものがやはりどこかにあらわれ出ているのではなかろうかと、こう思うわけであります。
 私は、あともう一つ、最後に申し上げておきたいのは、仕事もそうなんですが、一生懸命やったからといってそのプロジェクトが成功するということは保証されていません。仕事というのはやはりうまくいかせるようにみんな頑張るわけで、それはうまくいくことが大事なんですけれども、しかし人間のやることというのは、最後の最後はうまくいかないこともあるのです。人間の一生というのは他人から見ると、「あの人、恵まれなかったね」というふうに言われる人も残念ながら事実であるのです。私の一生もひょっとしたら他人から見て、「あの人、やはり恵まれなかったな」と言われるかもしれません。しかし、本人が一生懸命生きたということは、宇宙の150億年の流れの中で、あるいはもっと長いのかもわかりませんけれども、やはりその事実だけは残るのではなかろうかというふうに思えるわけです。
 そうすると、観光まちづくりも、これは決して否定するわけではないのですが、最後の最後は一生懸命やったというところが大変大事なところでありまして、その結果、観光客が来るか、来ないかというのは、実は保証されていないというところが、本当は言わないほうがいい話かもわかりませんが、最後に言っておいたほうがいいのかなと、こう思いまして、あえて付け加えさせていただきました。
 最後の最後に、やはり結果がついてこなくても例えばリスボンのおばあちゃんではないのだけれども、一家族が喜んだだけでも私はその街角がある、あるいはあったという意味は大変大きいわけでございまして、この泉佐野の名も知れないある街角に何か思い出がある人がいるかもわからない。そうすると、その街角というのは、この大宇宙の中でその部分だけ大変光り輝いていると、私は思うのです。観光というのは「光を観る」というふうに書かれているわけでありますが、この意味を敷衍するならば、人それぞれにとっての宇宙のそれぞれにとっての光り輝く部分があるというのが、一つ最後に大事な押さえどころかなと、こう思います。
 観光まちづくりというのは、そういう意味では観光に媚びてもいけない、しかしながらちょっと媚びる必要がある部分がある、この微妙なバランスというのでしょうか、ここが今日のいろいろなお話の中でも多分触れられる部分なのかなと、こう思って、私も楽しみにこのシンポジウムに参加した一人でございます。
 時間もまいりましたので、この辺でお話を終えさせていただきたいと思います。ありがとうございました。








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