5. 日本海底層循環の最近の停滞
日本海が氷期一間氷期の環境変動に敏感に反応した背景には,日本海の「いれもの」としての規模が小さいことや,表層での生物による一次生産量が大きい(深層へ降下してくる有機物のフラックスが大きい)ことなど,重要な要因のあることを指摘することができる.
さて,安定した間氷期にあるはずの現在,日本海の深層循環系に少しずつ変化の兆候が見えてきたことに話を進めよう.
東京大学海洋研究所では,1977年から1998年にかけて,観測船白鳳丸を用いて日本海の表層から海底直上までの海水の化学分析を継続して行った.図2は, 1998年に実施したKH-98-3航海の観測点の位置を示しているが,ほぼ同一点で過去にも観測を実施している.これまでの調査によって,日本海は水深約2,500m付近に境界面があり,そこから下側ではポテンシャル水温や溶存酸素濃度が鉛直的にほぼ均一であることが明らかにされている(Gamo and Horibe, 1983; Gamo et al., 1986;Gamo, 1999).そこで2,500m以深の海水を今後「底層水」と呼ぶことにする.
図2 白鳳丸KH-98-3航海における日本海の観測点の位置.
図3は,東部日本海盆の測点CM12近傍において, 1977〜1998年の間に4回測定した溶存酸素濃度分布をまとめて示したものである(Gamo et al., 1986; Gamo, 1999).この図をみると,底層水の酸素濃度が,わずかずつではあるが,着実に減少傾向にあることがわかる.前に述べたように,海水中では有機物質が絶えず酸化分解され,その際に酸素が消費される.定常状態では,消費による減少分だけ表面水から酸素が補給されて,見かけ上酸素濃度は一定に保たれる.しかし,もし酸素の補給が不十分になると,平衡が崩れて酸素濃度は次第に減少する.日本海底層水の酸素濃度が徐々に減少していることは,冬期の日本海北部海域における表面海水の沈み込み方に変化が起こり,日本海の最も深い部分への表面水の沈み込みが不活発になってきたことを暗示している.
図3 日本海のほぼ中央部における溶存酸素濃度の鉛直濃度分布の時間変動(1977年〜1998年).
4本の直線は,底層水(溶存酸素濃度均一層)の厚さ、および酸素濃度絶対値の減少傾向を示している(Gamo, 1999).
日本海の底層水の酸素濃度が減少傾向にあることは,気象庁舞鶴海洋気象台や最近の国際共同CREAMS観測によるデータからも裏付けられている(Kim and Kim, 1996; Minami et al., 1999).日本海における近代的な海洋観測が開始された1930年頃のデータと比較しても,図4に示すように,当時の方が現在に比べて酸素濃度ははるかに高い(Gamo, 1999).もし今のペースを単純に外挿すると,今から約300年後に酸素濃度はゼロになり,黒海と同じような無酸素環境に到達してしまうかもしれない(Gamo, 1999; Chen et al., 1999; 蒲生, 2000).
図4 日本海底層水中の溶存酸素濃度の経年変動(1932年〜1998年).
日本海盆東部(○,●)および大和海盆(△,▲)における報告例をまとめたもの.
●と▲は白鳳丸調査(図2)によるもの,○と△はそれ以外の調査によるデータ(出典はGamo(1999)を参照).
2本の直線は,白鳳丸データに最小二乗法を当てはめたものである(Gamo, 1999).
表層水の底層への沈み込みが停滞していることは,トリチウム(三重水素)の濃度分布からも裏付けられる.1960年代初期に盛んに行われた大気核実験によって,海洋表層には一時的に大量のトリチウム(半減期12.3年)がもたらされた.トリチウムは水分子を構成する水素原子とおき変わり,表面海水の沈み込みによって海洋深層へと広がっていった.われわれは日本海のトリチウムの濃度分布を,観測点CM12(東部日本海盆)とCM20(大和海盆)において1984年と1998年で比較した(図5, Gamo et al., 2001).図5から明らかなように,水深2,500mから下の底層水に関しては,トリチウム濃度に変化はない.海洋表層にしか供給源のないトリチウム濃度が変化していないということは,表層から底層への海水の供給がなかったことを意味している.つまり1984年から1998年までの14年間については,表面水の底層への沈み込みは停止していたことになる.
図5 東部日本海盆(CM12)および大和海盆(CM20)における1984年と1998年のトリチウム鉛直分布(Gamo et al., 2001).