2. 海洋における酸素の収支
海洋にはさまざまな生物が生息している.ごく一部の特殊な生物を除いて,生物の活動には酸素ガスが必須である.海洋の表面では,植物プランクトンによって太陽光を利用した光合成反応が起こり,二酸化炭素と水から酸素ガスが生産される.したがって海洋の表面水は,豊富に酸素ガスを含み,生物にとって快適な環境が維持されている.
太陽光の届かない深海では,光合成は決して起こらない.その一方で,深海には生物の死骸や排泄物(マリンスノー)がひっきりなしに降下してくる.それらはバクテリアによって酸化分解されるので,酸素ガスは消費される一方となる.もし酸素ガスが完全に消費し尽くされると,そこはもはや生物の棲めない死の世界となる.
地球上にはそのような海もある.ロシア,ウクライナ,トルコなどに囲まれた黒海(最大水深は2,250m)である.黒海はマルマラ海を経て地中海と一応接続しているが,その接続口である海峡(ボスフォラス海峡およびダーダネルス海峡)がたいへん浅い(最大水深は,それぞれ35mおよび65m)ために,黒海の深層水は地中海から完全に分離している.深層水には酸素が補給されないため,光合成の起きる表面海水から下では酸素ガスは急激に減少する.水深約200mから下は無酸素状態となり,通常の生物にとって猛毒の硫化水素ガス濃度が深度とともに増加していく.
では,日本海はどうだろうか? 隣の海との間の海峡が浅く,深層水が孤立しているという地形的特徴は黒海とよく似ている.ところが日本海の水深2,000m,あるいは3,000mといった深層海水を採取して分析してみると,意外なことに酸素濃度はたいへん高く,表面水の2/3程度はある.なぜ日本海の深層水は,黒海の深層水と違って,死の世界になるのを免れているのだろうか?
海水中の酸素ガスの供給源は,光合成反応の起こる海洋表面のみである.したがって深層水が無酸素状態にならないためには,酸素ガスに富む表面水を,何らかの方法で深層に送り込んでやらなければならない.しかしこれは簡単なことではない.海洋というのは一般に成層構造をしている.つまり表面には温度の高い低密度の海水があり,海底付近に最も冷たく高密度の海水が存在して安定な状態を保っている.このような海洋を放置しておく限り,低密度の海水はいつまでも表面に浮かんでいて,決して自発的に深層へ潜り込んでいくことはない.先に述べた黒海は,まさにこの状態にある.黒海でも表面水は豊富に酸素ガスを含んでいるのであるが,その密度が小さいため,深層まで潜り込むことがない.