東京湾
東京湾海水中の塩素化ダイベンゾダイオキシン(PCDD)、塩素化ダイベンゾフラン(PCDF)とPCBの三次元分布調査
海水試料は潤滑油の汚染のない、オイルレスステンレスワイヤーに直列に装着した4器の装置を海水中に沈め、およそ9時間の間、ろ過/吸着を行った。係留中は操船により、誤差1マイル以内に調査地点を維持した。また、東京湾内の水深の浅い場所では装置をブイに係留し、長期間の試料採集を行った。
図4はPCDDの各調査地点(A、B、C、D、E、F)での鉛直分布を示している。東京湾外湾部(D)と相模湾(E)ではそれぞれ深層水と中層水が高濃度を示し、表層水はこれらの化学物質の汚染を反映していなかった。この現象は、部分的にはYanagi(1992)の推測する「潮汐ポンプ」に起因していると推測されている。
図4
また、東京湾におけるダイオキシン類の湾外への移動速度を推定するため、潮汐による海水交換時の海水中濃度の変化を調べた結果が図5である。横軸は引き潮時と満ち潮時の濃度の差を元に、一日あたりの潮汐による化学物質移動量を示している。横軸の値が大きいほど湾外に移動しやすいと考えられる。ここでは一日あたりの総PCDDの移動量は20fgとなったが、実際の海水交換速度と海水中濃度を考慮すると、この値は小さすぎるため、ダイオキシンの湾外への移動に関しては潮汐による海水交換はその一部を担っているにすぎないと考えられる。しかし、ここで興味深いのは移動に関わる溶存態(dissolved)と粒子吸着態(paticulate)の割合で、後者よりも前者の方が移動量が大きいことである。ダイオキシン類は粒子吸着性が高いため、通常は粒子による移動が主であると推測されているが、この仮説は分析結果と一見、矛盾する。しかし、この現象は、前述の溶存有機物の寄与で説明できる。つまり、浮遊粒子として捕集される大きな粒子は海水中ダイオキシンの大部分を吸着しているが、重いために移動量は小さい。一方、粒子として捕集されない小さなコロイドや溶存有機物は海水交換にともなってたやすく移動するため、化学物質の存在濃度は低くても全体としての移動量に占める割合は大きくなると考えられる。
図5
ここで明らかになった現象は、実は下記のように説明できる。
水中の粒子には浮遊粒子(suspended particle matter)、沈降粒子(settling particle)があるが、後者のみを捕集するためにはセディメントトラップ(写真6)のような特殊な装置が必要である。通常、環境水を採取後、ろ過を行った場合、両者ともろ紙上に捕集される。ダイオキシン類は一般に脂溶性が高い(オクタノール/水分配係数が大きい)ため、粒子の多い試料では大部分のダイオキシン類が粒子画分に存在すると予想される。
写真6
しかし、外洋海水や貧栄養湖水のような粒子の少ない試料ではどうであろうか。図6にSchulz-bullらによってPCBについて作成された概念図を示す。これは1996-97年に行われた北大西洋調査航海時の海水及び深海底質中の分析データをもとに、本海域における深度別のPCB存在形態をモデル化したものである。表層水(0-1000m)の海水中には1m3あたり5.8ugのPCBが存在し、中層水(1000-3500m)では2.1ug、3500m以下の深層水では1ug以下である。また、表層泥(0-3cm)には1.9ug/m3存在すると推測される。深度別存在形態を見ると、表層水ではSPMが36%であるのに対し、中層水では11%に減少し、89%が溶存態として存在する。3500m以下では99%が溶存態である。SPM中のPCBは有機体炭素に吸着されていると考えられるため、組成の異なった表層と中層のSPMでは乾燥重量あたりのPCB濃度も異なっている。
図6 北大西洋における海水中PCB存在携帯モデル(Schulz-Bull, 1999)
特に、ここで測定された溶存態PCBはその物理化学的性質から考えると、真の意味で水溶状態で存在するとは考えにくい。PCB、ダイオキシン類の様な粒子(有機体炭素)吸着性の化学物質は極性に乏しいため、海水中では完全に溶解した形態で存在することはなく、独立した粒子やコロイド等から構成される連続的な有機物質画分に分配されていると予想される。結果として、水中のダイオキシン類の見かけ上の溶存濃度はフィルターで捕集できない微少な溶存有機物の組成によって大きく変動する。実際、溶存有機物を多く含んだ淡水とこれらの少ない海水では単純な相互比較は不可能に近い。また塩分濃度に大きな幅のある汽水域においても同様の現象が生じていると予想される。
まとめると、溶存有機物質の正確な定量法自体が現在発展中の研究領域であるため、全く同一の試料採取・処理方法を同一のマトリックスを有する試料に適用しない限り、粒子吸着体/溶存態ダイオキシン類の厳密な測定データの相互比較は現状では困難であるといわざるを得ない。
従来、人工化学物質の海洋環境挙動に関するモデルとしては、ヘンリー定数等の物理化学的性質をもとにシュミレーションを行う、海水/大気のフラックスモデルが多用されている。この最たるものが、「global distillation仮説」である。しかし、上記の結果を考慮すると、日本海や東京湾のダイオキシン類の動態については単なる物理化学的性質や海水/大気交換だけではなく、溶存有機物等を介したダイナミックな海流の動きが直接これらの物質の挙動に影響している可能性が高いと推測される。
また、本来三次元的な環境である海洋環境中の有害化学物質の挙動を知るためには、従来使用されてきた、表層海水のみの化学分析情報では正しい評価を行うことは不可能であり、鉛直分布も含めた三次元的なモニタリング手法の開発が必要不可欠であることが、以上の結果により明らかである。