5. 現場ろ過吸着装置を用いた海水中POPの分析例
私たちは、以上の情報から、原理的に二次汚染が存在しない試料採取方法である現場ろ過/吸着装置を使用するのが最適であると考えた。しかし、現場ろ過/吸着装置を用いた超微量の環境水中POPの分析例はほとんど存在せず、基礎データが不足しているため、私たちは共同研究相手であるドイツ・キール大学と共同で前述のKISP-NIRE DIOXIN TYPEを日本海や東京湾に適用し、調査手法の検討と、基礎データの収集を行った。1995年の調査では北海道南西部海域において、この装置を用いた海水の各層採水を行い、各深度でのPCBsとの環境ホルモンの一種であるノニルフェノールの異性体別濃度を測定した。
日本海北西部におけるPCBとノニルフェノールの鉛直分布
海水試料は1995年6月から7月にかけて、鉱業事業団所属「白嶺丸」を用いた海洋調査において採集された。試料採取地点を図2に示す。後志海盆(水深4000m)における溶存態および吸着態PCBとノニルフェノールの鉛直分布を図3に示す。それぞれ左がPCB、中央がノニルフェノール(NoPhs)である。比較のため、Petrick等(1996)が報告した北大西洋外洋域の海水中PCB鉛直分布を右図に示す。北大西洋外洋域の海水中PCBsは表層が最も高濃度で、深層ほど濃度が減少している。太平洋や大西洋等の外洋域では一般に表層から深層にかけてPCB濃度は減少する傾向にあり、給源のほとんどが大気経由であることが示唆されている。対照的に、日本海では溶存態については表層と底層で最も低濃度であった。また、溶存態、吸着態とも500m-1000m、2000m-2500mで高濃度を示し、調査期間中、鉛直方向にPCBs濃度の異なる複数の水塊が存在したことが窺われた。
また、ここには載せていないが、各試料中のPCB異性体組成比較結果から、50m-100m、500m-1500m、2000m-2500m、3000mの各々の深度で明らかに異性体組成が異なっていた。また、表層水、中層水、深層水のPCB組成の差が比較的明瞭に現れたことから、これらの水塊間の混合は非常に少ないことも窺われた。
ノニルフェノールに関しては外洋海水の分析データは本報告が初めてであり、詳細な考察は難しいが、東京湾内海水や河川水中の濃度に比べると100倍程度低濃度であった。また、PCBと同様に表層水よりも中層水の方が高濃度を示した。
図2
図3
日本海の水塊構造、特に表層水に関しては1950年代から様々な物理探査が行われており、概要が明らかにされているが、局所的な潮流については不明な点が多い。また、1960年代までは、水深300m以深の海水については変化の少ない、「日本海固有水」という均一構造であると考えられてきた。しかし、1970年代初めにNitani(1972)によって、2000m以深の底層水の存在が報告され、1993-1996年に行われた、Circulation Research of the East Asian Marginal Sea(CREAMS)において得られたTS分布によっても(Takematsu, 1996,)、日本海海水が少なくとも表層水・中層水・深層水・底層水の四つの水塊から構成されることが指摘されている(Kim, 1996a, 1996b)。このうち、表層水は対馬暖流等、外部から流入してくる海水の影響が大きく、日本海固有水とは大きく異なった性質をもつ。また、日本海固有水の中でも底層水と深層水の間には温度・栄養塩等の不連続面が存在し、底層水内でのみ活発な鉛直混合をもつと推測されている。この底層水は冬季に日本海北部表層で生成すると推測されているが、毎年生成しているのではなく、不活発な時期もあることが指摘されている(Gamo, 1986)。
このような日本海海水の成層構造をPCBsの鉛直分布と比較すると興味深い結果が得られる。50-100mの表層水のPCBsは500mの海水とは組成・濃度のいずれも明らかに異なっている。また、500m-1000mで高濃度を示し、1500m-2000mで減少するが、これは中層・深層水に相当し、2500m以深の底層水とは明らかに不連続な組成を示す。いいかえると、低濃度の表層水は現在のPCBs汚染状況を表しており、中層から底層へかけての高濃度のPCBsは1960年代から1970年代にかけてのPCBs汚染の影響を受けている可能性がある。すなわち、日本海北部の中層・深層水は低温高密度水塊(底層水)の生成・沈降現象により過去のPCBs汚染を記録しているのではないだろうか。2500mと3000mのPCBs濃度の差は、特定のPCBs供給源の存在、または深層水の底層への沈降の可能性を窺わせる。
しかし、一方で、中層、深層での滞留現象は、日本海北部あるいはシベリア近海表層で生成する低温高密度の深層水の生成メカニズムと水平移動を直接反映しているとも考えられるため、これらの海水中に検出されたPCBsの給源を推定する必要がある。
また、PCBsの中層、深層での滞留現象が定常状態であり、鉛直混合が生じていないと仮定すると、PCBの環境放出量が激減したここ数十年間は、新たな底層水は生成していないとも考えられる。これは、日本海の底層水の溶存酸素量の減少(Gamo, 1986)とも一致するため、今後の調査が期待される。