第1章 全体概要
1.1 背景と目的
(1)琵琶湖のヨシ群落と暮らし・文化との関わり
古くから琵琶湖におけるヨシ群落は、人々の暮らしや文化と深く関わり、それを支えてきた。
ヨシはかつて簾や戸・棚などの建具・家具、茅葺き屋根・垣根などの建築資材、燃料や薬剤などに加え、琵琶湖の伝統的漁法であるえり漁や梁漁の漁具にも使用されるなど生活の様々な要素として利用されてきたほか、湖辺のヨシ群落は琵琶湖固有種のニゴロブナをはじめ、ゲンゴロウブナ、ホンモロコ、コイなど多数の魚類の産卵場を提供し、その結果として人々に豊かな水産資源の恵みをもたらしてきた。
また、ヨシ群落は、魚に限らず他の生物にとっても重要な生息の場を与え、カイツブリ(滋賀県の県鳥)やカルガモ、オオヨシキリなどの繁殖・生息の場、ツバメの集団塒として利用されるなど、多種の鳥類及びこれらをとりまく琵琶湖の生態系を育む重要な役割を担ってきた。
景観面においても、遠く万葉の時代から詩に詠まれたことで知られるように、ヨシ群落は琵琶湖と融和して湖国の自然を象徴する原風景を呈し、そこに住む、あるいは訪れる人々の安らぎや哀愁を演出する重要な素材であったと想像される。また、厳冬期のヨシ刈りや早春期のヨシ地焼き風景など、地域特有の時事の暮らしを反映した湖国の風物詩も、今日に伝えられる風景的文化の一つである。
さらに、ヨシ群落は、風波による浸食から湖岸を保護し、近年注目される水質浄化機能によって琵琶湖の水質保全にも少なからず寄与するなど、環境保全の効用もあると考えられている。
このような多様な機能により、琵琶湖のヨシ群落は湖国の自然や生活・文化・歴史を語るに欠かせない存在であったと言えよう。
しかしながら、近代に入り、湖岸の埋立や内湖の干拓、琵琶湖総合開発などの公共事業、湖岸施設の建設など県域の発展に伴う種々の要因によって、かつて琵琶湖の湖周に1953(S28)年時点で約260haと広大な面積を占めていたヨシ群落は、1992(H4)年時点では約130haにまで激減し、元来の環境保全機能と効用の有効性が著しく低下したと言わざるを得ない状況となった。
このような状況への憂慮と、ヨシの果たす多様な機能見直しの気運が高まったことを背景に、滋賀県では1992(H4)年7月、ヨシ群落保全条例が施行され、現在、ヨシ群落の維持保全・回復に向けた種々の施策・事業が展開されている。
(2)ヨシ群落保全条例
「ヨシ群落保全条例」は、湖国の風土・文化、水辺の生態系、湖辺の水質などの保全、ならびに自然との共生に向けた取り組みの具体化を図ることを主旨としている。
条例は次の3つの柱で構成される(図1.1)。
【1.ヨシを守る】
琵琶湖及び内湖におけるヨシの保全・増殖を行う場所の「ヨシ群落保全区域」としての指定。
【2.ヨシを育てる】
保全事業としてのヨシの植栽及び指定区域内のヨシ群落の必要箇所への消波柵設置等の造成事業、ならびにヨシの刈取り・群落の清掃等の維持管理の実施。
【3.ヨシを活用する】
ヨシの有効活用のための調査・研究、環境学習等の場としてのヨシ群落の活用。
条例によれば、ヨシ群落は必ずしもヨシの純群落に限定せず、次のように定義されている。
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(注)「滋賀県琵琶湖のヨシ群落の保全に関する条例」滋賀県条例第17号
公布:平成4年3月30日 施行:平成4年7月1日
図1.1 ヨシ群落保全条例の3つの柱とその事業
「ヨシ群落」とは、ヨシ、マコモ等の抽水植物(以下「ヨシ等」)の群落及びヨシ等とヤナギ類またはハンノキか一体となって構成する植物群落をいう。(条例第2条第1項)
これは、景観保全・護岸・生態系保全・水質浄化等の各種機能が、ヨシを含むこれら水辺性植物群落の一体的効用として期待し得ること、ならびに湖岸立地のパイオニア的存在であるヨシ群落の遷移過程において、多種植物の混生は自然状態ではごく当然と言えることに配慮したものと思われる。
県は、琵琶湖の湖周に分布するこのような群落の主要な箇所を対象に、条例に基づき、
の3種の区分による「ヨシ群落保全区域」の指定を行っている。
県の指定した「ヨシ群落保全区域」は琵琶湖・内湖の合計で239.9haであり、このうち「保護地区」は34.9ha、「保全地域(保護地区を除く)」は192.4 ha、「普通地域」は12.6haとなっている(図1.2)。
《ヨシ群落保全区域の区分》
【保全地域】
相当規模のヨシ群落を有するか、またはある程度のヨシが存在し、そのヨシを保全することにより、隣接するヨシ群落と一体となって群落を形成することが可能な地域。
【保護地区】
保全地域のうち、優れたヨシ群落か形成され、魚や鳥などの動物にも有効に利用されており、その生態系の保全を図る上で特に重要であると認められる地区。
【普通地域】
上記保護地区、保全地域以外のヨシ群落保全区域。
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図1.2 ヨシ群落保全区域指定状況の概略
(3)植栽事業への取り組み
琵琶湖のヨシの植栽は漁連等の手により古くから実施されていたが、事業としての取り組みが始まったのは比較的近年になってからである。
1984(S59)年から1992(H4)年にかけては、琵琶湖総合開発に伴う湖岸堤築造により消失したヨシ群落の修復を目的として、水資源開発公団により湖岸の一部にヨシ地の造成がなされたが、その後、1992年のヨシ群落保全条例施行以降は、滋賀県を主体とする琵琶湖のヨシ植栽事業が本格的に実施されるようになった。
淡海環境保全財団は、1993(H5)年の財団設立以後、滋賀県の委託を受けて毎年継続的な植栽を実施しているほか、条例の主旨に基づく種々のヨシ群落保全等に係る事業(図1.3参照)を展開している。
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図1.3 淡海環境保全財団の主な事業(ヨシに関するもの抜粋)
しかしながら、条例第9条に基づき県が策定した「ヨシ群落保全基本計画」では、平成4年度から平成13年度の10年間に30haの植栽を実施することとされたにもかかわらず、平成12年度末時点において計画の約30%程度しか進捗していない。
これには、ヨシ植栽適地選定の問題や事業費(コスト)の問題、技術的問題など様々な原因が考えられるが、そのうちの一つには、植栽開始当初、ヨシ植栽に関する知見が少なく事業が試行錯誤的であり、活着率が低かったことが原因として挙げられる。
その後、当財団ではヨシの挿し木苗をヤシガラマットに植えたマット苗を開発し、これを用いた1996(H8)年以後の植栽地では一部を除きヨシの概ね良好な生育が見られているようであるが、植栽年が新しいこともあり、その成果についての検証はできていない現状にある。また、植栽の成否には工法以外の底質、地形、水深、波等の他の種々の環境要素も関わっていると考えられるが、その複合的影響を具体的に説明し得る知見は十分に得られていない。
いずれにしても、これらに関する科学的知見を得てこれを植栽技術に生かし、ヨシ植栽成功率を高めることにより、植栽事業の進捗率の大幅な向上を図ることは、当財団のみならず県の環境保全行政上、緊急かつ重要な課題の一つとなっている。
(4)本調査研究の目的
以上の背景を踏まえ、本調査研究は、過去の琵琶湖におけるヨシの植栽事例を調査し、ヨシの生態的特性と植栽工法等に係る既存の知見ならびに既往植栽地等の現地で得られる情報から、ヨシ植栽の成否に係る因果関係を解析することにより、適正な植栽条件についての検討を行い、もって今後の植栽技術の向上と植栽事業の効果的推進及び地域の環境保全に寄与することを目的として実施したものである。