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4. 国益に基づく国際主義を模索せよ
●コンドリーザ・ライス
 
 米国の国際主義外交は「国益という確固たる基盤から導きだされたものでなければならない」。クリントン外交の最大の問題は、ビジョンも優先課題も示さずに個々の問題に場あたり的に対応し、しかもそれに理想主義というべールをまとわせたことだ。第二次世界大戦後の歴史からも明らかなように、「米国が国益を定義し、それを模索することによって、自由や市場経済、平和という普遍的な価値」が整備されていく。当然、市場経済と民主主義という米国を源流とする流れが大きな潮流をつくりだしている今、米国の国益重視路線の世界的重要性はますます高まっている。この点からも、立場を同じくする同盟諸国との関係は重要だ。大統領が「九日間も北京に滞在しながら、東京にもソウルにも立ち寄るのを拒否するようなことは、絶対にしてはならない」。中国はパートナーではなく「戦略的ライバルであり」、経済的交流をつうじて内的変化を促進する一方で、中国の安全保障上の野心を「封じ込めること」が重要である。アジアにおけるわれわれの目標は、米軍のパワーゆえに朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)や中国が軍事力の行使を断念するような環境をつくりだすことにある。
 
国益の模索が理念を満たす
 ソビエトの崩壊によって、米国は自国の「国益」を定義しにくい状況に直面している。米ソ対立の終結に続く時代をどう考えていいか皆がとまどっていることは、いまだにポスト「冷戦」時代(冷戦後の時代)という表現が使用されていることからも明らかだろう。
 しかし、戦略的な好機を与えてくれるだけに、このような移行期は大切である。流動期にあればこそ、われわれが今後の世界の形成に大きな影響を与えることもできる。
 われわれは現在、途方もなく重要で巨大な責務に直面している。ソビエトは、伝統的な意味での単なる世界的なライバルとしてくくれる存在ではなかった。彼らは、市場と民主主義に取って代わる世界的な社会主義体制を構築しようと試みた。ソビエトは、自国だけでなく、しばしば知らぬ間に影響下に置かれていた諸国、そして衛星諸国を、国際的な資本主義の荒波にさらさないように他の世界から隔離した。だが、ソビエトはそうすることによって結局は自滅への道を歩むことになった。彼らは孤立し、経済的にも技術的にも取り残されていったのだ。
 しかし、これは全体像の一部でしかない。ソビエトの崩壊は、もう一つの大きな革命と時を同じくしていた。劇的なまでの情報テクノロジーの進展と「知識集約型」産業の成長が経済のダイナミズムを根本から変化させ、すでに姿を現しつつあった経済トレンドを加速させた。つまり、国境線などおかまいなしの経済的統合という一大潮流である。一方、投資を呼び込む競争が激化するにつれて、各国は国内の経済・政治・社会構造上の苦しい選択を迫られるようになった。「ニュー・エコノミー」のお手本としての米国の経済的影響力は拡大し、それとともに外交上の影響力も大きくなっていった。米国は、同時に起きた二つの革命による恩恵を他に与えるとともに、それを享受している最前線の国なのだ。
 新しい外交政策の枠組みをつくるにあたって、まず米国が世界で非常に有利な立場にあることを認識する必要がある。米国を源流とする力強い社会トレンドは世界を開放経済へと向かわせるとともに、若干勢いは落ちるものの、民主主義と個人の自由という方向にも動かしている。国によっては、そうした流れに片足しか踏み入れていない国もあれば、民主主義と経済発展から自らを切り離したいと今なお望んでいる国もある。また、目の前の必要性である近代化を避けるために、(民族問題その他の)古くからの敵意に身を任せている国もある。
 しかし、米国とその同盟国は正しい時流に乗っている。
 こうした状況において米国は、重要な問題ととるに足らない問題とを区別した規律ある外交政策を一貫して展開することで、好ましいトレンドをさらに進展させなければならない。クリントン政権はかたくなに、こうした一貫性と規律を備えた外交政策を実行しようとしなかった。逆に危機に直面するたび、問題に場あたり的に対応するのみだった。外交政策に優先順位をつけることは勇気のいることだ。それは、米国の外交政策が、あらゆる人、より正確にはすべての利益集団に、望むものすべてを与えることなどできないと認めることになるからだ。
 たしかにクリントン政権のアプローチにはそれなりのメリットがある。政策の優先順位とその意図を明らかにしないでいれば、批判を免れることができる。
 しかしこのアプローチをとれば、大きな代償を払わなければならない。米国のように多元的な民主主義国家においては、「国益」を明確に定義しない限り、世界から手を引こうと考えている人々を勢いづかせるか、あるいはそれによって生じる空白が偏狭な利益集団や一時的なことしか考えない圧力集団によって埋められることになる。
 
新政策の骨子
 共和党政権は、国益、そして高い優先順位を持つ政策に焦点を絞った外交を展開すべきである。具体的には次のような政策に重点を置く必要がある。
・ 米軍が間違いなく戦争を抑止し、戦力を展開し、抑止が崩れた場合には国益を守るために闘うこと。
・ 自由貿易と安定した国際通貨システムをこの原則を支持するすべての国に広めることによって、経済成長と政治的開放を促進すること。米国の国益にとってこれまで死活的な地域とはあまりみなされなかった西半球もその対象にすること。
・ 米国の価値を共有し、平和、繁栄および自由を育むための責任を分担できる同盟国と、強固で緊密な関係を新たに構築すること。
・ 将来の国際政治システムの性格を形づくっていく能力があり、また実際にそう試みるであろう大国との関係、とくにロシア、中国との包括的な関係を政策の焦点とすること。
・ 無頼国家の政府や敵対的な国家がつくりだす脅威に対して断固たる態度で臨むこと。こうした諸国は、テロリズムや大量破壊兵器(WMD)の開発に手を染めつつある。
 
外交理念と国益のバランス
 米国による力の行使であれ、他国の力を行使する能力であれ、パワーは大きな違いをもたらす。しかし、これまで同様、米国の国民の多くは、パワー・ポリティクス(権力政治)、大国、パワー・バランス(勢力均衡)などの概念を不愉快なものと考えている。極端な場合、こうした概念への不快感ゆえに、国際法、国際規範という概念が引き合いにだされ、多くの国による同意や可能なら国連のような国際機関の承認が正当な力の行使には不可欠であるとする考えが表明される。かくして、「人道主義的利益」や「国際社会」の利益が、「国益」に取って代わっていった。力の行使が正当性を持つのは他人や自分以外の人々の利益のためにそれを行使する場合に限られる、と見るウィルソン主義的な信条は、クリントン政権にも大きな影響を与えている。たしかに、全人類にとって有益なことをなすのは悪いことではない。しかし、それはある意味、(重要な国益を擁護する試みをつうじて)副次的に達成されるべきものだ。米国が国益を追求することによって、自由と市場、平和を促進する条件が整備されていく。事実、第二次世界大戦後に米国が国益を追求したことによって、より繁栄した民主的世界が形成されたわけで、同様のことは今後にも言える。
 多国間協定や国際機関の支援そのものを目的としてはならない。たしかに強力な同盟関係を持つことは米国の国益に合致するし、国連その他の国際機関や、周到に準備された国際協定によって米国の国益を促進することもできる。だが、クリントン政権は多国間協調型の問題解決に躍起となるあまり、米国の国益に反するような協定に調印することもあった。(気候変動枠組み条約に関する)京都議定書がその顕著な例である。地球温暖化をめぐる事実がどのようなものであれ、この議定書は中国を対象に含んでいないうえに、厳しい基準の対象から「開発途上国」を外し、一方で米国企業は基準で縛られる。これでは、米国の国益に反するとしか言いようがない。
 同様に、米国の包括的核実験禁止条約(CTBT)批准に関する議論も示唆に富む。一九九二年以来、米国は一方的に核実験を自制してきた。この姿勢をつうじて米国は全世界に対して手本を示してきたが、この自制が「永遠」に続くわけではなく、核実験が必要になった場合には実験を再開できる。しかし、核兵器保有に反対する「規範」を求めて政府が合意した条約は、条約違反を防ぐ査察が不可能なうえ、ならず者国家による核兵器開発の脅威にも対処できず、自国が保有する核兵器の信頼性を損ねてしまうものだった。条約が交渉されているときに議会が示した懸念は的を射たものだったが、クリントン政権はこの懸念を無視した。この悪しき条約の批准を議会が拒否すると、政府は反対に回った議員に批判の矛先を向けた。驚いたことにクリントン政権は、リチャード・ルガー上院議員(共和党・インディアナ州選出)やジョン・ウォーナー上院議員(共和党・バージニア州選出)のような長年にわたる国際主義者に対して、孤立主義者という烙印を押したのである。
 たしかに共和党の大統領も、内容に疑問を残す象徴的な意味合いしか持たない協定を結んだことはある。上院外交委員会によれば、五二ほどの協約、合意、および条約が上院の批准を待っており、その中には四九年当時の国際合意もある。しかし、クリントン政権による象徴的な意味しかない協定への執着や、甘めに見ても幻想としか言えない国際行動規範の模索は行き過ぎである。そんなものはリーダーシップとは言えない。米国には世界における特別な役割があり、国際協約や協定のすべてに固執すべきではないという立場は妥当であり、これを孤立主義と批判するのは見当ちがいだ。
 「国益」という概念に抵抗がない人でも、大国間関係や権力政治に焦点を当てることにはためらいを感じている。だが現実には、平和、安定および繁栄に大きな影響を与えることができるのは、一握りの大国だけである。このような大国は逆に大きな混乱を引き起こすこともでき、怒りを爆発させるか好ましい行動をとるかによって、何億という人々の運命が左右される。その規模、地理的位置、経済の潜在力、軍事力ゆえに、大国はよきにつけ悪しきにつけ、米国の繁栄を左右する力を持つ。さらに、そうした大国は国際政治で大きな役割を果たさなければならないという自意識を持っており、自国のことだけを考えているわけではない。
 このような世界観は、社会的価値観が果たす役割、とくに人権と民主主義の促進という側面を無視していると懸念する者もいる。実際、権力政治と社会価値に基づく道義的な外交を明確に区別する人もいる。こうした二律背反的な見解、言い換えればリアリスト的見解と規範や価値を重んじる(道徳的)見解との葛藤は、学問領域の議論としては意義あることかもしれない。だが、現実の米国外交政策にとっては災いでしかない。米国が重きを置く価値は普遍的なものである。人々は言論の自由、信教の自由、為政者を選ぶ自由を手にしたいと望んでいる。国際的な勢力均衡がそうした価値を共有する諸国に有利に作用しているときに、これらの価値は最も確実に実現される。しかし、国際的にも国内的にも、好ましい勢カバランスを形成するには時間がかかることも多い。しかも、これらの価値を共有しない大国を無視したり隔離したりすることは不可能である。
 冷戦がその具体例だ。ソビエトの崩壊によって中・東欧や旧ソビエト地域での民主主義と人権状況が劇的に好転していったことを否定する者はほとんどいない。ソビエトの崩壊ほど人権状況を改善させた事例はない。冷戦期の米国は、「ボイス・オブ・アメリカ」の放送にはじまり、海外の反体制勢力支援への大統領の直接関与にいたるまで、あらゆる手段を用いて政治的自由を促進する政策をとってきた。しかし一方で、ワシントンがモスクワとの地政学的関係の重要性を忘れたことはなかったし、全面的軍事対決を抑止するために、米国の力強い軍事力を維持する絶対的必要性も常に自覚していた。
 一九七〇年代、ソビエトは絶頂期を迎え、パワーを行使する意思も十分に備えていた。だが、ソビエトの経済とテクノロジーは基盤が弱く、この時期の勝利も結局は砂上の楼閣のようなものだった。レーガン大統領はソビエトのパワーに強い決意と周到なタイミングをもって対抗した。レーガン政権は、「四分野のアジェンダ(軍縮・人権・経済問題・地域紛争)」における個々の問題にかんして、モスクワヘの密度の濃い実体を備えた対抗策をとった。その後ブッシュ政権が、中・東欧でソビエトに対する巻き返し戦略を展開した。ソビエトは、そのパワーの衰退とともに自国の利益を守れなくなり、幸いにも平和的に西側に屈服した。これは、西側、そして人類の自由にとって大きな勝利だった。
 
共和党政権の紛争介入ルールを示す
 目的の実現に向けて米国はさまざまな資源を駆使できる立場にある。グローバル経済の下、各国は、経済の自由化、よりいっそうの開放性と透明性を実現するとともに、何よりも情報技術へのアクセスを必要としている。当然、米国経済に利益をもたらし自由貿易を拡大するような貿易政策は、国際政治を形成していくうえでもきわめて重要な手立てとなる。そのような貿易政策をつうじて、われわれは南アフリカやインドなど多様な国家との接触を保ち、さらに西半球諸国を経済的繁栄という共通の利害へと誘導できるようになるはずだ。世界中で起業家が増えていけば、人権と個人の自由を求める貴重な社会基盤が生まれるわけで、この点を踏まえて貿易政策は実施されるべきである。しかし、繁栄と自由を今後も間違いないものとしていくには、まず平和を維持することが重要な前提となる。世界の平和と安定を保障できるのは米国だけであり、当然、米国の軍事能カを維持していかなければならない。しかし、平和を維持するわれわれの能力は、米軍の戦力整備を重視しない現政権の路線によって損なわれている。
 ブッシュ政権は冷戦終結を受けた一九九一年、環境の変化を踏まえて国防費を若干削減した。しかし、その後クリントン政権は無節操に大幅な国防費削減を断行し、その結果は惨憺たるものである。米軍の即応体制がおろそかになり、訓練にも支障が生じている。軍人の給与は文官と比較して一五%も低下し、米軍の士気も低下している。既存の戦闘機、艦船、戦車の稼働性維持のための保守に多くを投資せざるをえなくなり、新規装備の調達が犠牲にされている。こうした状況ゆえに、新兵のリクルートも兵士を軍につなぎ止めることもしだいに難しくなりつつある。
 さらにクリントン政権は、平均すると九週に一度というすさまじいぺースで米軍を海外に展開している。現政権は、対GDP比国防予算を真珠湾攻撃以来、史上最低のレベルにまで削減しておきながら、ここ五〇年間で最も頻繁に米軍を海外に派遣している。なかには、ハイチヘの侵攻のように米軍の派遣決定そのものに疑問を禁じ得ないものもある。国防費を継続的に削減しておきながら、米軍の任務を増大させること自体、どう考えても賢明ではない。目的と手段のバランスを欠いているわけで、広く薄く展開された戦力はもはや機能まひに陥る寸前にある。クリントン政権が国防支出の増額を要求したのは、こうしたトレンドが明白になり、無視し続けることが不可能なほどにやっかいな問題をつくりだした後だった。クリントン政権の国防次官自身が「衰退へのスパイラル」と呼ぶ現象、つまり、軍を維持し動かすために今後に向けた調達および研究・開発コストを犠牲にすることの悪影響はかなり進行している。自分では何もせずに、レーガン政権時の軍拡路線の成果を食いつぶしていこうとするクリントンのやり方は、米軍の最高司令官としての大統領の責任をまったく無視している。
 次期大統領は、これら問題点の修復という課題に直面することになる。軍の即応体制にかかわる問題の修復は非常に大切であり、とくに給与や住宅という兵士たちの生活レベルにかかわる部分、そして軍事訓練面への対応が必要になる。今日要求されている任務を今後も米軍が遂行できるようにするには、新兵器の導入が必要である。もっとも、現状でも米軍は最新鋭の軍事技術を持っており、いかなる敵に対しても優位に立てる。したがって、次期大統領は冷戦思考から脱して、むしろ二一世紀型の軍隊を構築していくことを優先課題とすべきである。米国が持っているテクノロジーの優位を利用して、軽装備ながらもより破壊力を持ち、機敏で、遠隔地からの正確な攻撃能力を持つ軍隊を構築していく必要がある。そのためには、ワシントンは資源配分の再検討を行い、戦力の段階的な改善ではなく、一足飛びに次世代のテクノロジーを利用するような場合も出てくるだろう。
 もう一つの大きな問題は、米軍の任務が不明確になってきていることだ。戦争を抑止し、(それが崩れた場合には)戦い、勝利を収め、国益を守ること。これは具体的にどのようなことを意味するのか。まず、米軍は、米国だけでなく主要な同盟国の利益が存在するアジア太平洋地域、中東、ペルシャ湾、ヨーロッパにおける、敵対的な軍事国家の台頭に断固たる態度で臨まなければならない。こうした抑止力を形成できるのは米軍だけである。また、このような広範な責任をしっかりと担うには、米国は手を広げすぎたり利害を読み誤ったりしてはいけない。米国が果たすべきはサダム・フセインがペルシャ湾岸諸国を脅かしたときにわれわれが果たしたような役割にほかならず、米国が持つべきは朝鮮半島や台湾海峡において問題が起こらないように抑止力を形成できるパワーである。とくにアジアにおける目標は、米軍のパワーゆえに北朝鮮や中国が軍事力の行使を不可能と断念するような環境をつくりだすことにある。
 小さな紛争でも米国の戦略利益に影響を及ぼすようなものもある。コソボ紛争がその例である。これは、北大西洋条約機構(NATO)という米国にとって最も重要な戦略同盟の裏庭で起こった紛争だった。ユーゴスラビアのスロボダン・ミロシェビッチ大統領がコソボのアルバニア系住民との平和的共存を拒否したために、この地域の不安定な民族バランスが崩れそうになった。たしかに、東ヨーロッパは少数民族、そして少数民族問題の坩堝だが、一九九一年以降、ハンガリー人とルーマニア人、ブルガリア人とトルコ人、そしてウクライナ人とロシア人さえも、民族的対立を紛争へと激化させないための打開策を見いだしてきた。だがミロシェビッチは例外だった。彼の暴走を食い止めることは、米国にとって戦略的に非常に重要だった。もちろん人道的な悲劇への配慮もあったが、同盟関係の利害への認識が持たれていなければ、もう少し不安定な介入になっていたはずだ。
 とはいえ、コソボ紛争が一貫性をもって決然と戦われたわけではなかった。これは、クリントン政権の政治目標が変化し続けたこと、そして介入当初ホワイトハウスが断固たる軍事力の使用にためらいを見せたことが原因だ。介入後にクリントン大統領がミロシェビッチの頑強さにあたふたしたというのは、まさに驚きである。もし歴史から学ぶべき教訓があるとすれば、紛争ですべてを失ってしまうかもしれない小国は、そうした紛争が直面している問題の一つに過ぎない大国よりも頑迷な態度をとることが多い、ということだ。もう一つ教訓がある。それは、もし戦争をすると決心したならば、勝つつもりで戦闘に臨まなければならないことだ。さらに、米軍を撤退させる政治的戦略も用意しておく必要がある。コソボに関しては、今に至るもこの戦略が欠落している。
 では、もしも議論の余地がないほど戦略的重要性の低い地域で米国の価値が脅かされた場合、どのように対処すればよいか。米国は、重要な戦略的根拠がない場合には、紛争に介入して人命を救う必要はないのだろうか。次期大統領は、米国に介入すべき義務があると判断し、しかもそれをきちんと説明ができる場合にだけ介入するようにすべきだろう。「人道的介入」を選択肢から排除することはできない。しかし、戦略的重要性を持たない地域に介入する場合には、それが何のための介入なのかについて明確な認識を持つ必要がある。人道的問題は他の問題も抱え込んでいることが多い。人を殺害したり食糧が行き渡らないようにしたりする行為は、ほとんどの場合、政治的なものだ。われわれが紛争の底流にある政治対立に取り組むつもりがなく、紛争当事者のどちら側につくのかを明快にしないなら、米軍は紛争勢力の間に永遠に割って入らなければならない。紛争勢力の一方、あるいは双方が米軍を敵と見なす危険もある。本来、軍隊がこのような「人道的」危機で重要な役割を果たすのは無理だし、状況を読み誤ってまったく予期せぬ状況に直面する危険は高い。事実、これこそソマリアにおける「任務肥大化」の本質だった。
 大統領は、軍が特別な手段であることを頭に入れておく必要がある。それは破壊的な存在であり、また破壊することが軍の任務である。それは文民警察組織でもなければ、政治的レフェリーでもない。軍は市民社会を構築することにはまったく不向きである。クウェートからサダムを追い出すという限定されたものであれ、第二次世界大戦中に日本とドイツを無条件降服させたような包括的なものであれ、軍事力を最もうまく行使できるのは、それが明快な政治目的に導かれている場合である。限定的な政治的目標を掲げて断固たる軍事行動を起こすことと、軍事介入の度合いを段階的に高めていき、その途中で政治的解決を探ろうとすることはまったく別物である。軍事力を行使しようとする大統領は、断固たる軍事介入が可能か否か、またその効果があるのか否かということを自問しなければならないし、いつ、どのようにして撤退するかという計画も立てておく必要がある。したがって、米国がこのような規準を満たす可能性の低い「人道的」危機に介入するのは、非常に限られたケースとすべきである。
 米国が世界中で起きている人道的紛争や内戦を無視すべきだと言うつもりはないが、かといって、あらゆるところに軍事介入するのも無理だ。むしろ、地域諸国が介入したほうがよい場合も多い。東ティモールヘオーストラリア主導の介入が行われたことがその好例である。こうした場合、米国は財政、後方支援、情報面での支援を行えるだろう。一方、紛争の初期段階における、決意に満ちた力強い外交政策によって、軍事介入の必要性をなくせる場合もあるだろう。いずれにせよ、世界の「一一〇番」、つまり緊急出動部隊として米軍を使用すれば、その能力は低下し、米兵は平和維持の仕事に忙殺されるだろう。さらに、世界の大国は米国が人道主義の名の下に世界中に「主権の制限」を強要しているのではないかと懸念するかもしれない。米国の国益をこのように拡大解釈してしまうと、その反動として他国も同様の権限があると主張しだすかもしれない。逆に、こうしたケースにおける軍事力の行使をめぐって米国が国連の承認を頼みとするようになる可能性もある。そうなると、米国の死活的な国益をめぐって軍事介入が必要なときにも、国連の支援を得ようとすることになるかもしれず、これもやはり間違っている。








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