B. 共和党の伝統の継続的妥当性
ブッシュ大統領を批判する者たちは、彼の外交政策を一国主義的かつ反動的でごう慢なものだと攻撃してきただけではない。彼らは、状況は間もなく変わるだろうと自信を持って予測してきた。これらアナリストの一部は、ブッシュ大統領の立場を、クリントン前大統領の実績とは最大限可能な対照をつくりだす、狭量的で近視眼的な政治的決意のせいにしている。他方、先に示したように、大統領とその補佐官たちを、国際政治の新たな課題に気付かぬ偏狭なキッシンジャー派の現実主義者とあっさり切り捨てる者もいる。驚くべきことに、九月のテロ攻撃後も、この種の批判が続いている。
それにもかかわらず、ブッシュ大統領の外交政策は、主として短期的な政治的計算によるのではなく、同大統領の党の政治家たちによって長く保持されてきた価値観によって形づくられている。そして、それらは今日の世界にとって不適当どころか、真珠湾攻撃以来、米国の外交政策を支配してきたリベラルな国際主義よりも、冷戦後の世界において米国の権益を確保するのにずっと適している。
「国際主義」はしばしば、世界の問題に対する米国の関与の同義語として単に使われている。さらに、それはまた、外交政策の特定のイデオロギー、すなわち、ウッドロー・ウイルソン大統領の考え方を起源とし、第二次世界大戦後に全盛となったドクトリンも指す。それは何よりもまず、世界は通信や運輸の進歩により劇的に縮小したので、外洋に囲まれていることによって生み出された、攻撃に対する米国の伝統的な強みは失われたと主張する。つまり、今や、米国は地球のどの片隅で起きた出来事や問題にも極めて傷つきやすいだけでなく、同様に他のすべての国も極めて傷つきやすくなっている。事実、脅威や混乱は不可避的かつ急速に地球全体に広がる。安全保障の面で、世界は継ぎ目のない一つの全体となった。
国際主義者たちはまた、政治・経済世界は継ぎ目のない織物になったと信じている。彼らはさらに、どこであれ政治・経済・社会の動きが軍事紛争の基本的な原因であるため、それらがどう動くかが決定的に重要であると主張する。結果として、米国の外交政策は究極的に、これら非軍事的な争いの原因の根絶を目指さなければならない。
これら国際主義者の考えは実践面では、[1]世界的な戦力投入能力[2]地球規模の熱核戦争から地域的な暴動まであらゆるレベルの戦争を遂行する能力を備えた軍隊[3]軍事同盟の世界的ネットワーク[4]経済、政治および一定の軍事問題に関する協力を促進する国際機関[5]対外援助の意味あるプログラム[6]各地での小規模戦争を終結させ、緊張を緩和するための外交イニシアチブ―を生み出してきた。国際主義者たちは、安定した世界をつくり、あるいは維持することによってのみ、米国はどうにか安全で繁栄することができると信じている。事実、彼らは、国際関係がこれまでになかったようなもの(相争うのではない協調的なシステム、ジョージ・H・ブッシュ元大統領の言う新世界秩序)に変わらない限り、米国は永続する安全あるいは繁栄を享受できないと信じている。
結果として、国際主義者たちは、米国の死活的な権益には原則として際限がないとの定義を保持するとともに、ジョン・F・ケネディ大統領が感動的に約束したように、米国は外交政策のためには「いかなる犠牲をも払い、いかなる負担も引き受け」なければならないと信じている。実際、行動主義そのものが国際主義の顕著な特徴である。国際主義者たちは、大国とは世界の舞台での振る舞いによって規定されると信じている。
共和党は、長く幾つかの派閥を内包してきたが、冷戦中、これらすべての派閥はこの行動主義的国際主義者の意見に賛同した。にもかかわらず、ニューヨーク州のネルソン・ロックフェラー知事のような穏健派の北東部出身共和党員を除けば、共和党員たちは一般的に、こうした意見にいら立ち、時には強く異議を唱えた。彼らは、セオドア・ルーズベルト大統領や、マサチューセッツ州選出のヘンリー・キャボット・ロッジ上院議員(ウィルソンによる米国の国際連盟加盟計画に対し、特に、それが侵略との戦いに米国の支援を義務付けるとの理由で強硬に反対した人物)からインスピレーションを得た。米国の海外での軍事介入に対する共和党の反対は、一九四〇年六月のフランス陥落まで極めて強く残っていた。
冷戦中でさえ、オハイオ州選出のロバート・タフト上院議員のような共和党員たちは、一九四九年の米国の北大西洋条約機構(NATO)加盟に反対した。多くの共和党員たちはまた、強い軍隊を維持することは断固支持したが、頻繁な海外派兵はそれほど支持しなかった。議会の共和党メンバーたちはしばしば、対外援助は国内での大半の「大きな政府」プログラムと同様に効果的でないと考え、その制限を求めた。そして、多くが国連に疑念を抱いたままだった。事実、米国の同盟関係をも含め、国際機構一般に対する疑念は、しばしば、共和党員たちを外交政策における一方的行動に向かわせた。その代表例が恐らく、ロナルド・レーガン大統領のグレナダ侵攻、リチャード・ニクソン大統領の対中関係正常化、そして戦後通貨体制であるブレトンウッズ体制を終わらせるとのニクソン大統領の決定だ。
冷戦が終結した時、こうした共和党の価値観や立場の多くが、有力な保守派(レーガン、ニクソン両政権で補佐官を務め、一九九二年に共和党の大統領候補指名争いでブッシュに挑んだパトリック・ブキャナンが代表的)の中から再び現れた。これら共和党員たちは強い米軍を支持したが、海外での米国の軍事介入には極めて懐疑的だった(もっとも、ブキャナンとともに湾岸戦争に反対した者は比較的少なかったが)。彼らは特に、国連の平和維持活動で米軍部隊が国連の指揮下に入るとの見込みにショックを受けた。
冷戦終結でこれら共和党員たちは、第三世界諸国を経済的に支援するために多額の税金を使う理由をほとんど見いだせず、したがって、米国の対外援助の大幅削減を強く求めた。彼らは、米軍の維持にはコストがかかっているのに、欧州のNATO諸国や日本などの軍事同盟国が自国の防衛のために米軍への依存を続けていると批判した。中には、これら同盟諸国がこうして軍事面に支出しないで済んだ財源を他に回すことで経済的に不当に有利な立場に立っていると論じる向きもあった。彼らはまた、国連などの国際機関を支持する必要をほとんど見いだすこともなかった。これらの機関の多数がしばしば、米国の立場に反対したためだ。加えて、米国が本当に残存する唯一の超大国であるならば、同盟諸国や国際機関は米国のイニシアチブを強めるのと同様に米国を束縛することになる、と共和党員たちの目には映った。こうした共和党員の多くはまた、北米自由貿易協定(NAFTA)その他の貿易自由化協定にも反対した。
より一般的には、ますます多くの共和党員が世界の経済的・政治的安定(国際主義者たちが国家安全保障上絶対必要と今なお主張しているもの)を促進するとの国際主義者たちの決意について、自分たちが国内問題で反対しているような経済的介入と社会計画の単なる延長と考えるようになっている。
一九九四年の選挙で連邦議会、とりわけ下院の支配権を握った共和党員たちは一般的に、こうしたよりナショナリスト的な派閥に属していた。彼らの国際主義に対する異議は少しも絶対的なものではなかった。事実、ニュート・ギングリツチ下院議長のリーダーシップの下で多くの者は、クリントン政権の外交政策におけるイニシアチブの大半、特に貿易政策、そしてバルカン半島への米軍の関与さえもしぶしぶ支持した。さらに、これら共和党員の大半は、同政権がNATO拡大をもっと早急に進めることを望んでいた。にもかかわらず、彼らの立法課題を要約した「米国との契約」は、はっきりと非国際主義的な趣をもった外交政策の立場を含んでいた。主として「契約」は、NATO拡大とともに、米国防支出の拡充、ミサイル防衛計画の推進、そして国連平和維持活動への米国の参加の大幅な制限を呼び掛けていた。「契約」は結局は、米国の外交政策にほとんど直接の影響を及ぼさなかったものの、その趣旨は明確だった。すなわち、国際問題への米国の関与の範囲を小さくすること、米本土防衛によりきちんと焦点を合わせること、そして、国際機関による侵害とされるものから米国の主権を保護するとの決意である。
これらの提案はすべて、一国主義、偏狭、そしてジョージ・W・ブッシュの外交政策のごう慢さとしばしば評されるものの中に、その痕跡がある。ブッシュ政権をはじめ、その他の共和党員や米国の保守運動も、国際主義に対するなお細切れの異議を、本格的な代替ドクトリンとして表すには至っていないが、こうしたドクトリンの輪郭が目に見えるようになりつつある。
このドクトリン(ナショナリズムと呼ばれるかもしれない)は、テクノロジーが世界を狭めたことに同意する。しかし、そのことは政策立案者には無関係であるとも主張する。また、世界は継ぎ目のない国際安全保障と政治・経済網の中にあるとの考えも政策立案とは関係がないとしている。なぜなら、国際主義が目指している全地球環境の制御あるいは安定化は、一つの国または政府グループによって実現することは不可能であるとナショナリストたちは考えているからである。したがって、こうした目的の追求は、米国の安全保障あるいは繁栄につながる実行可能なアプローチにはなり得ない。
ナショナリストたちは、国際情勢は明らかに米国に影響を及ぼすものの、米国には他の大半の諸国が享受していない数多くの利点があると論じる。その地理的位置、自然の富、軍産能力は、自給自足のためのほとんど無比の潜在能力、っまり、米国が自らの命運をよりコントロールできる力を生む。事実、ナショナリストたちは、米国は到底、国際環境全体を制御できるほど強くも、豊かでも賢明でもないが、自らの手段を通して、最も重要な安全保障および経済目標を達成するには十分、強く、豊かで賢明であると信じる。
したがって、一般的にナショナリストの外交政策は、国家安全保障に対する脅威の根底にあるとされる地球規模の問題を解決するための包括的なイニシアチブを取ろうとしない。その代わり、あらゆる形態の米国の力の拡大を追求する。国際主義者たちとは対照的に、ナショナリストたちは、大国とは世界の舞台で何を行うかによって定義されるとの考えにはくみしない。彼らは、大国とはそのものによって、つまり、国際的な課題に充てる資産と質によって定義されると信じる。
このようにナショナリストたちが力の行使よりもむしろ、その蓄積に焦点を合わせているのは、二つの主要な判断からきている。第一に、QDR報告が述べているように、世界がますます複雑化し動きの早くなる中では、多くの主たる脅威と機会は、テロ攻撃のように、予測不可能となるという判断である。第二に、このように予測が不可能であることを考慮すれば、各国は、できるだけさまざまな不測の事態に対応する計画を立てるために選択肢を増やすことが最重要であることに気付くだろうというのがナショナリズムの立場からする結論である。これはQDR報告で明確に受け入れられている議論であり、同報告が「能力に基づく」戦略を求めているところである。力があるからといって予測不可能な事態にすべてうまく対処できるとは限らない。そもそもそれは何をもってしても不可能なことである。しかしながら、明らかに、強く豊かな国々は、弱く貧しい国々よりも、より多くのより良い選択肢を持つことになる。
このようなナショナリズムの外交政策への影響は増大するだろう。これらのナショナリスト的な考えの起源である冷戦前の世界政治の構造が、多くの重要な点で今日の冷戦後の世界政治の構造に似ているからである。
結局、米国はその歴史の大半を通じて、欧州の多くの大国および中規模国が欧州大陸やアジア、アフリカ、中南米で力と富を求めて争った世界と相対してきた。これら諸国は、大半の野心的な強国が常に追求した目標(比較的限られた領土拡張、一部の海外領土拡張、より多くの天然資源、商業的優位)を求めていたため、また、米国は規模、力、地理的位置において多くの内在的な利点を有していたため、米国は十分な水準の安全保障や繁栄を得るために国際政治そのものを変える必要がなかった。米国は、欧州の終わりなき策略や紛争に巻き込まれずに済むことすらできた。
国際主義者たちは、一九四一年以降、世界の問題への米国のかつてない関与をもたらした国際的な潮流の強まりが米国の関与を継続・拡大せざるを得ないと考える。しかし、二〇世紀初頭における米国の国際的関与の拡大を生み出した決定的な事態は恐らく、いかにひどくとも一過性であった現象のように今では見えるもの、すなわちグローバルな野心と軍事能力を持ったイデオロギー的に相いれない独裁諸国家の興隆である。
国際主義者たちは当然のことながらこれらの強国から絶対的な脅威を感じ取ったが、それに対処できるのは全面戦争の政策か(核兵器が生まれるや、こうした紛争は潜在的に自滅的なものとなった)総合的な外交政策を通じてのみだとの結論に論理的に達したのである。
一方、ナショナリストたちは、世界がいかに危険なままであろうと、ナチスあるいはソ連のような力と敵意を合わせ持つ潜在的な敵対者を見つけ得ることはないと考える(恐らく中国を除いては)。したがって、米国は、国際主義者たちの目的に必要とされるよりはずっと控えめで、厳密に考えられ、しっかりと焦点の合わされた政策と力で、現存し予見できる脅威に対処することができるということになる。
ソ連型の脅威がなくなり、西側に対する挑戦もさまざまな形に広がっていることから、西側の対応自体も一つに集中できなくなっている。そうした世界に対処するためには、同盟にしがみついている国際主義よりもナショナリスト的な外交政策が適しており、ブッシュ政権もまたその方向をたどっているように見える。アラブ・イスラエル紛争の解決や、イラク封じ込め、軍備管理の推進、核拡散への対抗、イランやリビアなどならず者国家への対処、バルカン半島政策の管理、地球温暖化との闘い、そして多数の貿易問題をめぐって、米国とその同盟諸国との間に近年かなりの隔たりが浮上している。パートナーとして、また、力を倍加させる存在としての同盟諸国の信頼性が低下した今日、米政府が現在の同盟諸国に大きく依存するのは愚かなことであろう。
最後に、よりナショナリスト的な新たな外交政策は、米世論に一層密接に適合し、したがって、より強力な政治的支持を享受することになる。外交問題に関する米国の世論調査は、世論を測るには不十分であるとの悪評がある。しかし、世論調査は冷戦終結以降(実はベトナム戦争の最盛期以降)、一貫して米国人が最重要の安全保障目的以外で米国人の生命を危険にさらしたり、資源を費やすことに前向きではないことを示している。
恐らく重要なことだが、一〇年間、米国の政治家たち、特に連邦議会の議員は、これらの主張が真実であるかのように行動した。彼らはかなり不承不承に一九九〇年代の平和維持活動を支持するとともに、政権当局者に対し、米国人に相当数の死傷者が出るのは容認しないことを明確にしていた。彼らは、国防・対外援助予算の大幅削減を認めた。そして米国の国連分担金の削減を確保する一方、国連当局者から、国連の効率性を改善するとの新たな言質を取り付けた。二〇〇一年九月のテロ攻撃はこうした態度を大きく変えそうにはない。事実、米国人はテロリストに対する国際的なコンセンサスや国際的な連合を結集するための忍耐を示しそうにすらない。
日本内外のジャパン・ウォッチャーたちは何年間も、日本が再び「普通の国」になれるかどうかを議論してきている。しかし、日本と日本の外交政策にとってより重要なのは、米国自身が断固として正常に向かっているというはっきりしたサインを送ることである。