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基調講演(抜粋)
子どものスポーツライフを考える
 
講師
 
大八木淳史氏(ラグビー元全日本代表選手)
1961年生れ。79年、高校ラグビー日本代表としてイングランドに遠征。同志社大学では4度の大学日本一、83年には全日本代表としてウエールズ遠征、その後84年にニュージーランドに留学。85年神戸製鋼に入社し、同スティーラーズの一員として日本選手権V7を達成、神鋼黄金時代を築く。日本代表キャップ保持数30。現在はコベルコピーアールセンターCRプロジェクト担当部長、日本ラグビーフットボール協会普及育成委員として活動中。タグ・ラグビーの普及や講演などで全国各地をまわる一方、テレビやラジオのレギュラー番組に出演。ラグビーを通じて得た「出会い」と「勇気」の大切さを熱く語っている。モットーは「出逢いに感謝」。スポーツのプレーそのものを楽しむ醍醐味と、一方でスポーツを見る側が常に感動モードに身を置けるような観戦環境を用意すべしと説く。著書に「勇気のなかに」(アリス館)「友よ」(ダイヤモンド社)「夢を活かす!―熱血師弟の実践的子育て」(講談社)がある。
野球・サッカーに挫折した少年時代
 
 私は1961年8月15日、終戦記念日に生まれました。現在40歳です。私の出身は、京都市右京区嵯峨大覚寺門前井頭町、簡単に言うと、嵐山、大覚寺、広沢の池、化野(あだしの)念仏寺といった、テレビの時代劇でロケに使われるような場所で生まれ育ちました。
 通った小学校は嵯峨小学校。そのあと嵯峨中学に進み、そこでやったスポーツが「サッカー」でした。
 僕の年代の方でしたら同じ経験をされていると思いますが、だいたい小学校の頃に経験するスポーツはソフトボールで、なにかというとクラス対抗で試合をやらされました。当時、嵯峨小学校でも7クラスはあったと思うのですが、放課後とか土曜日の昼間の授業が終わってからは、たいがいソフトボールの試合でした。そのころからリトルリーグという専門的な少年野球のチームもありまして、そのメンバーがいるクラスは異常に強かったのを覚えています。つまり、負けつづけたという記憶です。
 中学に入ると、ソフトボールの素地がありますから、だいたいの子どもは野球を目指します。しかし、私は方針を変更してサッカーに鞍替えしました。京都は、釜本さんを生んだ蜂ケ岡中学もありまして、なかなかサッカーの盛んな地域だったのです。サッカー部に入ったのはええんですが、やはりサッカーも、たとえばリフティングーつでも、小さいころからボールに触れてないとうまいことできへんということに気づいたんです。今のパープルサンガの前身、紫光クラブとかの練習を見に行って僕にはサッカーは絶対向いてへん思いました。
恩師・山口先生との出会い
 
 高校は京都市立伏見工業高校に進みました。そこでラグビーと出会ったわけですが、本来、僕はラグビー部に入ろうと思って伏見工業高校を受験したわけではなかったのです。父親が大工職人でして、家業を継ぐという気持ちが僕にはあったわけです。当時、建築科がある高校は、京都府下では伏見工業高校だけやったのです。その入試日に、恩師である山口先生に出会って今こうしているわけですが、もし出会ってなかったら、建築界に進んでいたのではないかと思います。
 その日、山口先生にこう言われたのです。
 「大八木な、もし君がそのラグビーボールを持ってラグビーを始めたなら、きっと君は日本を代表する選手になるやろう」。
 「きっと君らが日本代表で活躍するころには、日本代表もほかの諸外国のチームに肩を並べるぐらいのチームにひょっとしたらなっているかもしれん」。初めてラグビーボールを持った時の話です。
 ついこの間、高橋尚子さんが世界最速記録を出して、1週間後にタイムが塗り替えられことがありました。あるテレビ番組で小出監督と高橋選手の関係で、なぜ彼女が金メダルを取れたのかという議論になり、児童心理学の大学教授が、「小出監督は、高橋選手、キューちゃんを常々ほめてほめて、何があってもほめてほめてほめまくった」というのが金メダルにつながったのだ、と解説しました。
 その番組を見ていて、小出監督の著書を読ませていただきました。僕が自分の生い立ち、ラグビーと出会ったことをリンクさせてみると、ある一つの共通点を発見したのです。ほめるだけではないのだと思ったのです。

 高橋選手はいろんなトレーニングを積んでいても、練習とかレースに出ながら、いろんな葛藤が多分あったと思うのです。たとえば、練習中の走りのなかでも、「私、このまま走っていてもほんまにオリンピック代表になれるのか」、「オリンピック行くだけ行って、別にメダル取らんでも入賞できれば……」、いろんな思いとか、いろんな感情が交錯したと思うのです。
 僕もそうでした。高校1年生で、いきなり「君なら日本代表になれる」と言われました。山口先生は建築科の僕のクラスの副担任でした。会うたびに、「大八木、おまえやったら日本を代表する選手になる」。練習が終わっても、練習が始まる前も、授業でも、言われ続けました。
 たぶん小出監督も、高橋選手ことキューちゃんが、迷ったり疑問をもったりしたときに、絶妙のタイミングで、「君がもし真剣にこのまま走り続けたら、きっとオリンピックにも出られるし、オリンピックに出たら、金メダルも取れるやろ。金メダルを取るのやったら、今までにないタイムやで。世界最速のタイムを出せる」と常々言い続けたのと違うかなと思いました。
 山口先生も小出監督も、共通点は一つ。教え子である選手に、夢とロマンを、わくわくどきどきするような話しぶりで伝え続けてきたんです。
 僕は、日本ラグビー協会の普及育成委員として、日本全国にラグビーを教えに行ってます。見ていると小学生が、「このステップは、大畑さんはこう切るんや。こういうふうにボールを持つのや」、「大畑さんのキックはこうや」とか、僕らが口出しする前から大畑君の真似をしていました。
 きっと僕らも最初はそうやったと思うのです。初めて野球に出会って、ボール、グローブ、バットとかを父親に買ってもらったら、打席に入った時、長嶋さんのフォーム、今ならイチローのフォームですか、それを真似します。「おまえ、イチローになれるよ」と言う前に、子どもは目標ビジョンといいますか、最高のプレーヤーを目指して物真似から入っていくのです。
 山口先生は「子どもはあるものに例えられる」と教えてくれました。僕が現役をやめてから、いろんな子どもたちと出会って指導するからというので、話してくださったのです。
 「子どもというのはな、上質で高級な絹で織られた一枚の布(きれ)や。それも純白やで」。
 その一枚の布が、成長するなかでいろんなものに出会っていく。初めは砂を掛けられる。次は砂利で、その次には小石がどんどん積まれていく。またその次は2人掛かりで持たなあかんような大きな石がぼ一んと置かれる。
 「今の子どもたちが置かれている状況は、上質で高級な絹織物本来の姿がほとんど見えへん状況になっている。そんな子どもに出会った指導者というか大人は、そのときに、ほんのちょっとしか見えていない布本来の光沢を見つけて、思い切ってその布を引っ張り上げることなんや」
 「絹織物の布やったら上質なほど、どんなに重いもんが上に乗ってても、思い切って引っ張ったらすっと抜ける」。
 「絹の布は上質で高級なほど、どんだけ汚れても、どんだけ土や砂がかぶっていても、手洗いで丁寧に洗ったら元の上質な絹の布に戻る」
「その数平方センチしか残ってへん、本来の絹糸で織られた部分を見つけ出して、引っ張りあげる勇気のあるやつが子どもを教える資格があるんや」
 そう言われました。
変わるべきは大人だ、という結論
 
 僕は子どもたちに接する機会が多くあります。そういう出会いのなかで、実は、子どもの持っている純粋なスピリッツというか、精神というか、ハートというのは、ひょっとしたら、戦前の10歳の子どもも、戦後間もない頃の10歳の子どもも、高度成長時代の昭和30年代の10歳も、今の10歳も、2050年の10歳も、本来持っている子どもの純粋さというかスピリッツは変わっていないのだということが、接しているうちにわかってきました。
 もちろん、人間は利便性を求めてどんどん進歩しています。ITや情報化時代というのはたしかに現実のものです。でも、本来の子どもたちの心のありようは案外変わっていないのです。それなら、いったい何が変わったのだろうか、というと、その子どもに最初に接する父親であり、母親であり、その子が通う学校の先生であり、部活に入ったらコーチであり、地域の大人であり、大人たちがどんどん変化している、と思いました。
 人間の一番悪いところは何かといえば、たとえばアメリカの同時多発テロからの一連の動きも、一番弱いとされている部分にすべての罪をなすりつけているように思えるのです。そういう現象が世の中のあちこちで起きている。子どもと大人の世界で言うと、一番弱い、年端もいかない子どもらに被害が及んでいるのではないか、と感じてしまうのです。
 最後の結びとしまして、いま何をすべきか、行動を開始して子どもたちとどう接するのか、ということをひとり一人の大人に考えていただきたい。共感を新たにしていただければ、このセミナーでの私の役目は大成功ではないかと思います。
講演を終えて
 
私の講演は、顔と顔をつき合わせてお話させていただくことを原点としております。今回の講演内容について、内容を抜粋して掲載させていただきましたことは以上の理由によるものです。これからも一人でも多くの方と、直接お話できる機会がありますことを願っております。
 
大八木淳史
 









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