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第3章 横須賀市の景観構造
1 景観構造の基盤
 横須賀市の景観は横須賀の大地の上に刻まれた人間の社会活動の足跡であり、大地との係わりを抜きに地域の景観を語ることは出来ない。
 また、現在の景観の姿は、上述の大地の上に刻まれた人間の社会活動の過去から現在に至るまでの長い積み重ねの結果であり、その変遷を追うことにより、現在の横須賀の景観的な課題の本質が浮かび上がってくると考える。
 以上の観点から、ここでは横須賀市の景観構造の基盤をなす地形・地勢、その上に展開する植生と土地利用に着目して、それぞれの変遷とその特徴について整理を行う。
(1) 基盤としての地形・地勢
 横須賀市は三浦半島の中・北部を占めており、その地形は大まかに以下の3つに区分される。
 [1]:横浜市南部から連続する丘陵地
 [2]:観音崎周辺と武山南部に分布する台地
 [3]:上記[1][2]の地形を刻む谷沿いの沖積低地や海岸沿いの低地
 
 ここで、横須賀市の地形・地勢の原形として、縄文海進時(約6000年前)の地形構造をみると、縄文海進の高頂期には、平作川沿いをはじめとして、小さな谷にも湾入があり、極めて出入りに富んだ海岸線(汀線)の様相を呈していたことが判る。また、現在の観音崎付近の台地は、縄文海進の高頂期には、複雑に入り組んだ海域上の島のような形状を呈していた。現在の平作川に沿いの低地は、市内最大の沖積低地となっており、現在もその名残をとどめている。
図表3-1 横須賀市の地形構造
(拡大画面: 330 KB)
 
資料:横須賀市「横須賀市史」(昭和63年12月)
 
 一方、現在の横須賀市の地形の特徴について考えると、第2章において示したように、横須賀市では、昭和30年代から、丘陵部を主とする宅地開発や、沿岸部における埋立てが行われており、その地形構造が大きく変化している。
 そこで以降では、明治16年と平成10年の地形図の比較を行うことにより、近年の宅地開発、埋立てによる地形構造の変化とその特徴の把握を行うものとする。
 
ア 明治16年における横須賀市の地形とその特徴
 横須賀市の大部分を構成する丘陵地は、大楠山(標高242m)を最高点とし、おおよそ50〜150mの高度をもつ。明治初期には丘陵地は谷による開析が進み、その大部分が山林であった。また、沿岸部から内陸にやや入った所では、谷戸部の細かな地形の入り組みが見られ、横須賀の地形を大きく特徴付けている。
 東側の海岸線は、大きくみると観音崎を頂点として、逆「く」の字に折れ曲がっており、それぞれの海岸線に大小様々な湾が形成されている。例えば、比較的深く入り組んだ湾部としては長浦港や浦賀港が挙げられ、浜状の海岸線としては馬掘海岸、野比海岸が挙げられる。西側の海岸は、小さな単位で浜と磯が繰り返されているが、その中にあって小田和湾の大きな湾部が特徴的である。
図表3-2 明治16年(1883年)の横須賀市の地形
(拡大画面: 333 KB)
 
資料:参謀本部陸軍部測量局作成の2万分の一地形図(明治16年)より作成
 








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