吉田:私は昭和5年9月の生まれで71歳。この中では一番年が上だと思います。間もなく、余命まであと6年。死がどんどんと近づくという年でございます。私が中学3年、15歳のときに戦争が敗戦で終わりました。このすぐ南に香良洲町というところがあります。今朝、ここへ来る前にちょっと寄ってきましたが、戦争中、あそこには三重海軍航空隊というのがありました。そこに約12,000ぐらいの学生兵士がいました。昭和20年8月15日、天皇陛下の詔勅で戦争が終わりましたが、当時そこにいた若い兵隊さんたちは、われわれは負けてない、最後まで決戦するというので、騒然とした反乱状況が起こりそうでした。そのときモリザキ ミナトという21歳の若者が自分で松原の海岸で切腹して自決しました。遺書が全隊員宛に残されました。そこにはおれ1人が死ぬと。君らは100年生きて後の日本を再建してくれという遺書が書かれていました。その遺書のおかげで翌日葬儀が行われ、無事部隊は解散して、平穏に終わりました。私も敗戦のときに、それまで習った教科書に墨を塗らされて、180度、生きる目的まで変わってしまいました。価値観が180度変わるという体験が、私の原点です。
そしてもう1つ、1981年富士見産婦人科事件という、大変な事件が起こりました。不条理な死に対する私の怒りが、実は医療に関わった原点にあります。富士見の事件が起きてから、私は医療を良くする会とか、先ほどご紹介いただいた患者の権利法を作る会、あるいは医療の安全に関する研究会という、患者の権利を作ろう、守ろうという運動をやりましたが、一向に医療がいい方向に向かわないことにある種、絶望感を持ってました。しかし本当の意味での全人間的な医療、ホスピスケアという理念に私は出会いました。お仲間から誘いを受けて、1983年、愛知ホスピス研究会という市民グループを発足することになり、これに参加しました。つまり医療の中でも、ターミナルのホスピスケアで本当の人間的な医療がやっと受けられる。これを基盤にすべての病院でホスピスケアという理念が広まれば、私が最初に思った不条理な死は減るであろうというのが、そのときの私の心づもりでした。おかげで愛知県にもホスピスができましたし、先ほどの講演にありましたように、全国で89のホスピスができました。私たちが旗揚げしたときは、全国で11しかなかったホスピスが、この8年間で8倍に増えました。でも、毎日のように医療事故による不条理な死がいまだに続いています。また、幼児の虐待とか殺人とか自殺とか、不条理な死は戦争が終わっても続いています。私の怒りはまだまだ消えません。この不条理な死を少しでも医療の世界からだけでも、無くしていきたい。医療を良くしたい。この気持ちはたぶんあと6年、平均寿命終わるまで、私を支えると思います。今日はほかの3人のパネリストとは違った視点でしか私にはものが言えないのですけれども、全国から私たちの会に寄せられている約18,500通のお手紙を冊子にまとめたりしましたので、その中から少しでもお役に立つことがあれば、ぜひ皆さまに聞いていただきたいと思って、このパネリストの役を引き受けさせていただきました。どうぞよろしくお願いいたします。
松島:ありがとうございました。吉田さんには医療を受ける患者、家族の立場からご発言をいただきたいと思います。本来ですと会場の皆さまと意見交換ができれば、一番よいのですが、限られた時間ですので、ここに並ばれた4人の方々の意見を交換するという形で進めさせていただくことをご了承ください。