あのバスカーリアの原作を読んだ子どもが、わずか小学校の一、二年の子どもが、「あれを読んでからは枯れ葉を踏まないようになりました」というのですよ。「枯れ葉だって生きているのだから」と。また、いつも庭の落ち葉を掃除しているおかあさんが、今までは「隣の木の葉っぱまでも家の庭に落ちてきて」と掃き捨てていたのが、あの童話を読んでからは、葉っぱを集めて堆肥にするようにしましたと。小学生の子どもや、おかあさんも、あるいはおじいさん、おばあさんも、そのストーリーのもつ哲学が毎日の生活の中に生かされてきたというです。私はこの本はたいへんな傑作だと思いました。これは子どものための絵本というだけではなしに、大人も老人も「どうよく生きるか」ということを考えるきっかけを与えてくれるものだと思ったのです。『葉っぱのフレディ』のフィロソフィーは、劇にして上演すれば、もっとそれがわかりやすく私たちに感じられるのではないかと思いました。
私たち人間は、ニーチェが言ったように病む生きものです。自覚症はなくても、何かの疾患や異常や欠陥を持っている、悪い遺伝子をもっている。完全な人間というのはあり得ないのです。その苦難を受けて私たちはどのように病むか、どのように老いるか、そしていよいよ最後にはどのように死ぬかということが、日常の生活の中に現れて、それがそのまま自然な生き方となっていくことが必要なのです。気張ってこうするというのではなしに、私たちの自然な生き方の中にこの哲学が実践されるということが必要ではないかと思うのです。
私は毎年のようにアメリカのボストンにハーバード大学の教職を訪れます。そして時間を見つけてはボストン美術館にゴーガンの絵を見に行きます。今から約100年前、ゴーガンによって描かれた絵です。その絵には、フランス語で、左上のキャンバスに「人はどこから来、そして今どうあって、そしてどう死んでいくのか」という三つの問いが書かれています。ゴーガンは何度も自殺を試みて、それが失敗をして10年も生きることになったのですが、貧困に陥り、妻も愛する妹も亡くなって、どうしようもなくて悩んだときに描いたものだといわれていますが、私たちもゴーガンの問いを自分の心に問いかけてみなくてはならないと思います。これはフレディのフィロソフィーともぴったりと合うものです。
輝くスピリット
みなさんは宮城まり子さんの運営しておられる「ねむの木学園」をご存知でしょう。私は10年前に行きまして、からだが不自由で、知能に障害もあるという重度の方たちが暮らしています。外国から音楽療法の指導者を連れていって、音楽劇をやりました。そのとき、からだが不自由で、立ったり座ったりすることはできなくても、枯れ葉の踊りだったらできるのではないかと思って、床をごろごろころがってイヴ・モンタンの「枯れ葉」の音楽に合わせて枯れ葉の踊りをしてもらいました。これは実に素晴らしい舞台でした。舞台の上で、一人一人が生き生きと輝いていました。『五体不満足』の著者、乙武洋旧Nも輝いているではないですか。