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私は毎年一度はアメリカのボストンに行きます。ハーバード大学に大勢知り合いがいるからです。クリスマス前後に1週間くらい行くことが多いのですが、そのときには必ず暇を見つけてゴーガンの絵を観にボストン美術館を訪れます。壁いっぱいの横長に、極めて粗末なキャンバスに、ゴーガンはひと月ぐらいの間で、素描きをしないでじかに描き上げたということです。そしてこの絵を描き終えてから、砒素を持って森に入って自殺を試みるのですが、ちょっと砒素の量が足りなかったので、彼は死ぬことができず、さらに数年生き延びたのであります。この絵を描く前に、ゴーガンは新しい画法を探求して、太平洋の島、タヒチに行き、そこでいろいろな作品を描いてパリに戻ります。ところが、多くの人が彼の絵を正しく評価してくれない。それでまた、彼は悲しい気持ちでタヒチに戻っていくのです。そこで自分の愛する娘が亡くなったという報を受けるのです。もう自分には生きる気力がない、死んでしまいたいと思ったのです。そのとき、彼は、自分を含めて一体我々はどこから来たのか、今どうあるのか、そしてこれからどこへ行くのかということを、彼は自分自身に問いかけて、この絵に向かったのです。

一番右には生まれたばかりの子供と母親がいます。お母さんたちは喜んでいます。そして次には大人になり、人生のいろいろなことに出会った様子が描かれています。これは果物を摘み取っている若い人の姿です。このへんまではいいのですが、だんだんと生活の悩みや苦しみが描かれて、人生とは一体何なのかということを考えたり迷ったりする時期がきます。そのうちに人は齢をとり、そして病気になり、左端に黒く見えている老婆のように間もなく死んでいくのです。そういうさまが描かれています。ゴーガンが自分のいのちを絶つという決心をしたときの悲壮な思いの中で、人類にとってなかなか解くのが難しい問題を絵に残そうとしたのです。

 

私の闘病体験

私はこれまで64年間、医師として、内科医として働いてまいりました。私は京都大学医学部で1年を終えたときに、結核性の肋膜炎にかかって1年間休学を余儀なくされました。高い熱がつづきました。まだ化学療法のない時代ですから、ただ安静にしていることが療法でした。8カ月の間、熱は下がらず、トイレに行くこともできないほど、非常につらい闘病生活を送りました。

当時は今のように留年が当たり前のことではなかったものですから、病気で休学し、1年遅れるということが、エリートの道を走っていると思い込んでいた私にはひどくこたえました。私の同級生と競って私はストレートに京都大学に入学でき、うまくいけば教授にもなりたいという野心を持っていました。ところが、私はスタートの時点ですでに1年遅れてしまったのです。オリンピックのスピードスケート競技で、この人が優勝するだろうという下馬評の選手が、1周目に転倒してしまう。やっと起き上がってまた滑り出そうとしたときには、ライバルは2周目を走っている。同じ軌道を1周遅れて走っていくというこのようなシーンをみなさんもご覧になったことがあるでしょう。あの姿を私は20歳のときに経験したのです。そのときの私は、なぜ私が病気にならなくてはいけないのかという憤りを感じました。まじめにやっているのに、どうして病気になったりするのだろう。もし神様がいるならば、どうしてこのような試練をお与えになられたのかと煩悶しました。

 

 

 

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