本人について
それは、18年前のことでした。家は、ごく平凡なサラリーマン家庭で、母(私)は専業主婦、本人(T)は幼稚園時代は世話のかからぬ子でした。しかし今思うと、それが曲者だったようです。無理をしていた彼、良い子ちゃんを演じていた彼を見抜けなかったのだと思います。
とにかく当時は、ギャングエイジなどなく、しかもエネルギッシュな子どもでした。しかし、とても高慢なところがあり、それが4年生頃から目立ち始めました。「いつかこの鼻をへし折らないと大へんなことになる」と、私も悩むことがありました。
その頃から、弟(5歳)をよくいじめるようになり、暴力を振るうようにもなりました。人に迷惑をかけない良い子に育てていたつもりでしたが、…子どもの自立の芽をせっせと摘み取っていた親だったことが、今になって悔やまれます。でも、当時はそれがわからず、ただ一生懸命の子育てだったのだと思います。
迷いとあせりの日々
6年生の5月初め頃から不登校が始まり、登校時間になるとトイレに入り、時には押入れに閉じこもるという、どうしようもない日々でした。夏休みに、私の実家でゆっくりさせたらとの母の申し出があり、Tを預けました。
2学期に入って家に戻りましたが学校には行けず、教育研究所の方、養護教師、担任、校長(女)を交えての話し合いの場を持ちました。その時、女校長の言った「私立小へ転向させたら」とのひと言に、ただただあきれ、子どもなしの女校長に対して「なんとでも言えるものだ」と腹立ちを覚えました。子どもを守るのは親しかないと、痛感しました。
しかし、なんの決め手もなく2学期も終了。今思うと、一日も早く学校へ復帰させたいという親のあせりから、私は全く反対のことをしてきたような気がします。「一生のうち1年や2年の休学なんて、たいしたことではないよ、大丈夫だよ」と言ってあげられる心のゆとりが親にあったらと思います。たとえ親になくても、だれか適切な指導者でもいてくれたら、立ち直りも早かったろうにと思います。まあいいか!と腹をくくれていたらと、今となってはつくづく悔やまれます。
私は、全部反対のことを必死でやってきたようです。小学校卒業式の前夜、親子で式服と制服を用意したこと。当日は、Tの友人に迎えにきて欲しいと言い、友人と登校させたこと。親子で卒業式に出席でき、ひとり喜んで、ひとまずやれやれと安堵したこと。