ただ、これでもまだおかしいんです。幕府には西国巡見使とか、遠国奉行というのがいたわけです。その人たちを派遣するのにはどうしたか。これには巧妙な手立てができてます。瀬戸内海の備讃諸島、備讃海峡に、ちょうど瀬戸内海の真ん中よりちょっと東に塩飽諸島という二十八の小島があります。この塩飽諸島に幕府が奇妙な人たちを置いていました。これは職人でもなければ商人・百姓でもない、大名、小名などの呼び名に匹敵する人名という存在なんです。人名は塩飽諸島に六百五十人いました。彼らはどの大名にも属さずに、大阪町奉行に一応所属しているというだけの名目で、自主独立している船乗りなんです。人名というんですから、この人たちは税金も払わなくていいんです。いざという時は、この六百五十人の人名は幕府の御用には応えなくちゃいけません。だから、幕末に咸臨丸を初めて外国に派遣しました時に、その水夫八十六人のうち三十五人までがこの塩飽諸島の人名から出ています。本島には勤番所がありまして、人名年寄というのがおりましたが、ちゃんと給料が出ておるんです。この人名年寄によって自分たちだけの自治制度を維持していました。一旦緩急あれば、この六百五十人の人名が出ていくぞという、そういう体制をとっていたのです。