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一方、ここ千葉県では、ラグーンをウナギ池に利用しようとするタイミングがちょっと遅れました。つまり浜名湖で湿地を物凄い勢いでウナギ池にしたので、後発地域では、今さらウナギ池を造ってもウナギ流通のマーケットがすでに中京地区に占められてしまって、非常に難しくなったわけです。

 

こうしたラグーンを掘って造った港では、片貝漁港もそうなのですが、船が河口から海へ出る時どうしても河口に堆積した砂が邪魔になりました。それで、漁港関連の歴史の本を読みますと、九十九里浜の漁港の砂との闘いというのが技術的にも非常に難題であったことが書かれています。今日の配布資料に平本さんから提供していただいた漁港についての新聞記事がありますが、1950年(昭和25年)に漁港法ができまして、その時期に克服すべき技術的な課題として砂浜の制御というのがありました。

 

その記事の中で凄いと思うのは、漁港と政治の関係です。愛知県の渥美半島の遠州灘に面した赤羽根というところがあるのですが、そこでまず砂浜に港を造るという技術的なテストが行われました。九十九里の人達は何とか砂浜に港を造って欲しいと要望していましたので、渥美半島まで見学に行ったんですね。ところが、当初は技術的な見学という目的だったはずなのですが、資料の新聞記事にも書かれているように、「政治運動が起こらないと港はできないぞ」ということを愛知県の人に教えられたようです。これは戦後の海辺の土建行政の方向性が固まっていく過程を考える上で、すでにこの時期に社会的な方法論、特に政治運動をどういうふうにやるか、ということが赤裸々に記されているという点で、かなり貴重な証言となっているように思います。

 

つまり一般的に要望を挙げていくだけでは、日本各地の色々な所から挙がって来る要望の優先順位づけが難しいわけです。その中で特に自民党の代議士との関係性を深め、「技術的に港は造れない」と水産庁が言えば「ならば自民党には票を入れないぞ」、といったように、造らざるを得ないような状況を作り出す、といったような駆け引きが必要になって来たわけです。 こういう場で言うのも難しい話ですが、色々な社会調査をやって見ますと、表に出て来ないような政治的な裏話が歴史的な証言として出て来ます。

 

ちなみに、片貝では当時の自民党の代議士に対して、「ここの片貝に漁港を何とか造って下さい」と、この地域の人々が運動をしました。このときは漁業者だけではなくて、後背地一帯の半農半漁の人たちの票も漁業を支援するために使われたようです。これらの話はいかに当時の漁労活動が肉体的に過酷な状態、つまり、「冬も素っ裸で漁業をしなきゃいけないという状態から開放されたい」という強い思いがあったか、ということが想像できると思います。

 

その後、首相にもなられた鈴木善幸さんが漁業法を作る当時に、色々と運動をされました。それは故郷の岩手県の貧しい漁村を救いたいという思いが、漁港の制度を作っていく原動力としてあったわけです。そうして作られていった仕組みの中で、便利になった代わりに砂浜が破壊されていった過程を考える時、戦後は全国の漁村が非常に貧しく、かつ肉体的に厳しい状況を何とか脱したいという思いと裏腹だったという、そういうトレードオフを考えておく必要があるかと思います。

 

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ラグーン(潟湖)

 

ラグーン(潟湖)

浅い海の一部が漂砂によって堆積してできた砂嘴や砂州によって外海と隔絶され、浅い湖沼となったもの。通常はサロマ湖に見られるような狭い開口部があり、外海から海水が出入りする。

 

赤羽根

渥美半島の中央部、遠州灘に面した町。西向きの沿岸漂砂が卓越する場所に防波堤が延ばされて漁港が建設された。

 

 

 

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