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しかし、幸いなことに新六を含め船長以下十一名の乗組員は船の伝馬船で命からがら島に辿り着くことができた。そして、安堵の日が経つにつれ、新たな危機が現実問題としてさし迫ってきた。食糧の問題である。

もとより救助を求める通信の方法とてあろうはずがない。このままでは、島の全員が餓死の運命にさらされることになる。

そこで、新六は先ず船長たち船の幹部に、自分が伝馬船で小笠原島に渡り、救助を訴えようと提案した。

(あのボロの伝馬船で千三百キロの海を……まさか、正気で………)

みんな、新六の真意を疑った。しかし、新六の決意は固かった。新六がかつて小笠原回漕店以来の同志ともいうべき、松本彌吉(東京出身、四十四歳)、安西金蔵(千葉県人、二十六歳)、中山金之助(千葉県人、三十一歳)の三人が新六と同行する決意を持っていることを告げると、結局、船長たちもその決死行の準備に協力することになった。

ところで、その伝馬船なるものは―、

長さ、二丈三尺(約六・九七メートル)、幅五尺(約一・五一メートル)、深さ一尺八寸(約五十四センチ)、排水量およそ〇・三トンあるか無いかの小舟で、もとより動力などあろう筈はない。

早速、伝馬船の補強作業に天祐丸乗り組みの全員がとりかかった。先ず防水のため舳と艫と舷側を帆木綿(カンバス)で蔽い、一間半の帆檣を取り付け、予備の櫓三挺と揖も準備した。そして食糧は二十日分を目途に、軍用乾麺麭(かんめんぽう)百二十斤、魚鳥の乾(ほし)肉、米味噌少々、梅干し、気付け用の酒二升、鰹節四本を慎重に吟味して積み込んだ。肝心の飲料水は一斗樽で帆檣の根元に結いつけ、あとは天水に頼ることにした。

 

 

 

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