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そのような折も折、英国海運協会がグラムパス島を実地踏査した者には、邦貨にして三十万円の褒賞金を贈呈するというニュースが伝わった。但し、発見後は島の領有権は大英帝国に帰属するものとする、という抜け目のない条件付きである。

当時の三十万円……庶民にとってはとてもまともに実感できないほどの巨額であった。

とにかく、その賞金の話もさることながらその問題の島が所在するといわれる海域を日ごろ南洋貿易のため航海している新六にとっては、願ってもない挑戦状が舞い込んできたようなものであった。

 

明治三十年五月二十八日、新六は甥の片倉作二郎夫婦を伴って、いつものように雑貨を満載した天祐丸で横浜を出港し、父島経由で南鳥島に向かうことになった。片倉作二郎は度重なる新六の熱心な説得で、新六の代理として南鳥島開発事業の現場監督を務めることになったのである。

半月ほどで父島での商用が終わると、天祐丸は小笠原や八丈島出身の労務者十三名を乗せて、一路南鳥島を目指した。中には三組の夫婦も含まれていた。途中、安穏過ぎるほどの航海に恵まれ、南鳥島に着くや早速労務者たちや食糧を陸揚げし、新六も島に二泊したが、どうしたものか岩燕の雛たちは以前のように訪れてきてはくれなかった。

やがて、三月以来採集した鳥毛約二万五千斤(千五百キログラム)を積み込んだ天祐丸が帰国の途についたのは、六月三十日の午後のことであった。

出航して間もなく天候が急変し、暴風雨となって海は荒れ狂った。天祐丸は島に引き返えそうとして島に近づいたとき東岸の暗礁にたたきつけられてしまった。大きく傾いた瀕死の天祐丸は、貴重な鳥毛を積んだまま激浪の中に姿を消してしまった。

 

 

 

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