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水谷新六は、ペリーの黒船が来航した嘉永六年(一八五三年)、水谷清七の長男として伊勢の桑名に生まれた。

十四歳の時、江戸日本橋の呉服屋に丁稚奉公にあがることになった。新六は持ちまえの利発さで、身軽く陰日向(かげひなた)なく働くので、店の主人はその将来を誰にもまして楽しみにしていた。ところが、その新六が突然暇(ひま)をとって店を出たいと言い出した。新六二十九歳、奉公にあがって十四年目の、番頭に抜擢された許りの時である。愕いた店主がその訳を聞こうとして、いろいろ引き留めにかかったが、新六は長い間の恩遇を謝するのみで、店を辞めてしまった。

この時、口にこそしなかったが、新六は自分が一生商家のせまい結界(けっかい)の中に身をおいて、安穏第一、小心翼翼として世過(よすぎ)、身過(みすぎ)できる人間ではないことを自覚していた。そして、新六には期するものがあった。たとえ、同じ商賈(しょうこ)の道に生きるにしても、海を相手とした清新壮大な大事業を心に描いていた。

ちょうどその頃、新六には同じ志を持ち、互いに意気投合して、いつかは共同事業を展開しようと固く誓い合った友人があった。彼の名は服部(はっとり)新助、千葉県久賀の生まれで、新六より二歳年下の同業者で、呉服屋の使用人であった。二人はふとした機縁で知り合うと、いつの間にか将来の大望を語りながら、その実現の日を模索していた。

新六が店を辞めると、新助も待っていたと許りそれまでの奉公先から暇をとり、京橋西八丁堀に借家を見つけ、早速「小笠原回漕店」の看板を掲げたのである。勿論、手持ちの船とてある筈はない。資金とて借り集めた三百円があるのみである。

しかし、二人は相談のうえ、あり金の三百円で雑貨、衣類、酒類を買い込み、日本運輸会社の帆船に積んで小笠原島を目指して船出した。まさに帆は風を孕(はら)み、新六たち悲願の纜(ともづな)は解き放たれたのである。それは二人にとって記念すべき明治十五年春のことであった。

 

 

 

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