銭金(ぜにかね)の問題ではない。生きるか、死ぬかの事実(生命)の問題である。しかし、結局、新六の懇願に心を打たれた小野田が実際に労務者の募集に乗り出したが、島の実情を聞かされると、応募者は殆ど島行きを断った。そこで島役人としての小野田が身元引受人になるという条件で、やっと八名の労務者が南鳥島に渡航することになった。
天祐丸はすぐこの八名の労務者を乗せて、南鳥島を目指した。波静かな七日間の航海であった、島の南岸に着くと、天祐丸から食料、飲料水、医薬品、寝具、建築資材、羽毛採集の用具類や叺など、最低限島の生活に必要と思われる物品が伝馬船で陸揚げされた。新六たちが最初に掲げた日の丸の旗は、風に吹きちぎられたものか、もうどこにもなかった。
新六は、また新しい旗を椰子のてっぺんに掲げた。そして、島の中央部からやや南岸に近い処に、労務者たちの起居する開拓小屋を設営した。これが現在、「水谷村」と呼ばれている地点である。
天祐丸は一切の揚陸作業が終ると、一カ月後の再会を約して、すぐ小笠原島に向かって出航した。流石に、去る者も島に残る者も悲壮感につまされて、ただ黙々と手を振った。
さて、内地の土をふんだ新六の毎日は、多忙そのものだった。次の出航準備は若い船の事務員に代行させ、自分はその所在さえ掴めぬぐらいに南鳥島開発の資金繰りに奔走しなければならなかった。
と、言っても別に金貸しの門を敲いて、平身低頭していた訳ではない。海鳥の羽毛の見本を横浜の貿易商、上瀧七五郎商会に持参して取引契約の交渉中だった。上瀧は外国人に好評の寝具用羽毛の専門業者だった。
また、前に天祐丸で持ち帰ったグアノの品質の件は、その方の権威である恒藤規隆(のりたか)博士にその分析を依頼してあったが、結果は極めて優良と認定された。これにすぐ全国肥料組合の総裁である加納子爵が、食指をのばしてきた。もとよりグアノの採掘権も法的に取得していない新六であったが、幼少からの丁稚奉公で鍛えた持ち前の商魂で、堂々と交渉相手と渡り合った。