(ひょっとしたら、出来るかもしれんな)
その後、奉行所と出島の幹部の間で日本人特有のまわりくどい根回しが成され、俺はイライラする一ヵ月を過ごした。
寛政十一年一月十五日、待ちに待った許可がキウエモンに下りた。満を持していた彼は一気に作業にかかる。
その朝、俺はラスと一緒にボートで現場に向かった。イライザ号が沈む小瀬戸の沖は冬の厳しい貌をみせていた。その寒風をついて、キウエモンが集めたサルベージ集団が沈没船を囲むように集まっていた。
一番大きな船は西漁丸だろう。イライザ号と船尾を合わせた艫屋倉(ともやぐら)には、万祝(まんいわい)と呼ぶ真っ赤なコートを着たキウエモンの姿が見えた。西漁丸と舷を並べて西吉丸がいる。こちらの方が少し小さな船だ。西吉丸の甲板にはオランダ商館の倉庫から借り出した長い太綱と巨大な重滑車が山になっていた。
さらに小型の鰯漁船がイライザ号の周りを取り囲んでいた。その数およそ七十五隻。
キウエモンが取引をしていた網元は、この長崎周辺だけでも二十数軒あると聞いた。一軒の網元は平均して五から八隻の漁船を支配している。一隻の鰯漁船が鰯をとり、それを浜に揚げ肥料にするまで、網子と呼ばれる漁師とその家族三十人ほどの男女が携わる。