江戸時代は水、堀割が多い町でしたが、その水の役割が、明治維新とともに失われていき、水の東京から陸の東京へと変わっていきます。汽車を陸蒸気と呼んだり、水から陸へと東京の中心が移動していく。
下町には、現在ではほとんどなくなりましたが、明治時代までは、敗れた幕府側に味方する幕府びいきの心情が残っていました。それに対して、陸の東京山の手は、薩長土肥を中心に新しく地方から来た東京人が住むところでした。山の手の人間が下町を差別する、逆に下町の人間が、山の手のことを「のて」と言って、新参者たちの町だと言って批判する、下町と山の手は対立関係だった。
関東大震災後の東京の行政区画では、はっきり下町を工業区域とします。中心部分は行政と商業地域、西を住宅区域とはっきりエリア分けをしていく。東京大空襲は、下町ばかりが被害を受けて、山の手が大丈夫だったのは、非常に不公平だと思っていたのですが、下町は工場地帯だったことが大きな原因です。アメリカ軍が工場のある下町を集中的に空襲した。下町の悲劇は、江戸が敗れてから延々、第2次世界大戦まで続いたということです。
近代になっての東京が、下町と山の手という2つの異質な空間によって成り立っているということを意識して書かれた文学作品が多くあります。例えば、森鴎外の『雁』は、東京論、東京地理論として読むと非常におもしろい。明治時代のエリートである東大医学生の岡田という人物が住んでいるのが山の手の本郷の高台。上野あたりのあめ細工屋の娘で、岡田に恋をするおめかけのお玉がいます。江戸時代から続いている東京の町娘と、明治になって地方から出てきて東大に入った新エリートという2つの対立関係で、初めから住む世界が違うので、悲劇が予想されています。その2人の出会う場所が、まさに下町と高台の山の手が出会う、無縁坂という坂です。この小説は、東京地理学的に読んでもおもしろい作品です。
永井荷風の『深川の唄』は、明治の終わりに留学から戻ってきた荷風が、ある日、麹町あたりから市電の路面電車に乗って、延々日比谷から銀座、新富町あたりから隅田川を渡って、下町に行き、最後に深川まで行き、また戻ってくる話です。市電という明治になって登場した新しい交通機関に乗ることによって、1日のうちに東京の中の2つの異質な空間、山の手と隅田川を渡った下町の深川を見る。永井荷風は山の手と下町の2つの視点を獲得したことによって、東京論がおもしろくなっていく。
幸田露伴の『水の東京』は、これも明治の末に書かれた論文です。現在のウォーターフロント論が出るときに取り上げられる作品です。露伴も旧幕臣ですから、水の東京を愛している。随筆の冒頭は、明治になってから水の東京がすっかり忘れられて、みんなの興味が陸にばっかりいっているのはけしからんというモチーフです。水の東京の復権を書いている。
両国で育った芥川龍之介の『大川の水』も、自分がいかに水の東京に深い思いを持っているかを書いたエッセイです。永井荷風は山の手の人間であり、露伴も向島にいたのに、最後は文京区の山の手へ移る。鴎外も坂の上に移る。芥川龍之介も、下町で生まれ育ったのに、最後は田端の高台に移るという、明治の文学者の多くは下町から山の手に移動している。
明治時代は、次第に東京が拡大していきます。東に発展していくよりも、西へ西へと発展していきます。郊外という言葉が出てくるのが、明治の末ぐらいです。現在の中央線、これが開通してから、人の流れが西へ向かいます。夏目漱石の『三四郎』の中に、寺田寅彦をモデルにした物理学の若い学者が出てきます。彼が大久保に住むくだりがありますが、本郷の大学に通う人間が大久保に住むようなことが、明治の末ぐらいから行われてきます。
新開地と郊外という言葉が微妙に重なり合います。新開地はどちらかというとイメージが悪い。郊外は少し田園の香りがするので、文学者は盛んに郊外という言葉を使いたがる。明治の作家の移動を見ていておもしろいのは、漱石はほとんど郊外には関心がない。漱石の小説の中で、東京の一番西の地域が出てくるのは、『三四郎』の大久保です。漱石の頭の中にある東京の郊外はせいぜいその程度です。当時は新宿、大久保界隈はまだ田舎でしたから、明治の一代目の作家たちは、大体、新宿どまりと考えていいんです。関東大震災後になると、さらに西へと延びていきます。