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共和国以降の民族交換

 

しかも、時期的に1862年あたりといいますと、タンジーマート改革と言われる、いわゆる上からの近代化、西洋化といわれた時代の真っ最中です。この近代化は、ある意味でトルコにとって、その後、非常にドラマティックな影響を残した。魂を売るのかと言われるような急激な西洋化をした時期で、政治的にも非常に厳しい時期です。その中で、召使は半額とか言いながら、150人が外に出て行っているのは、この都市が持つ政治からも、どこか超然としているその動きを非常に生き生きと伝えてくるような気がします。

こういった活動が可能になっているその背景は、外国人コミュニティーと、ヨーロッパ各国の在イスタンブール公館、オーストリアが一番早い。その後、フランス、イタリアとどんどん入ってきます。オーストリアのプレゼンスというのがその後、高くならなかったのは、結局、それに付随するリセをあけなかったのです。フランスが一番早い。その後、イタリアがあけてきますが、外国語リセが開校してくることで、そこにトルコ人の学生が言語を学びに行く。その人たちが後に外交官となって、トルコ共和国が独立するときの中心メンバーになっていく。この人たちが後に共和国の初め、都市計画をするときの大きなグールバーグをどうするのかとか、あるいはどこに公共施設を建てるかといったことについて、ヨーロッパに行って、どんどん学んできているのです。初めは旅行だとか観光ビジネスで在外公館、あるいは外国人コミュニティーは役に立っていたのですが、その後、この人たちは、思想、文化、芸術を入れてくる。そして、トルコ社会を変えていく中心になっていく。

これ以外に、例えば、ファッションという点でも、パリ、ロンドンのファッションのトレンドは、旅行者が行っていますから、ほとんど時差なしでイスタンブールのガラタ、ペラ地区に入ってきています。

現在でもトルコのファッションはなかなかのセンスです。男性でもものすごいおしゃれなシャツを着ている。シャツ屋さんも多い。今、例えば、ロンドンのジャーニーストリートのお針子さんは、香港とか中国をしのいで、トルコ人のお針子が多く、技術も一番しっかりしていると言われています。これは、この時期のものがそのまま残っているのかと言われるとちょっと自信がないのですが、この時期からの一つの伝統であると思います。

受け皿になる多様なコミュニティーがあったから、そうやって発信も受信もできるのですが、同時に、コミュニティーが競争していくための方策は、ガラタ地区では、コスモポリタンというイメージ先行のところがあります。コスモポリタンというよりはギリシャ人を中心とするコミュニティーです。それに加えて、アルメニア人、ユダヤ人、フランス人が多く、そしてムスリムというふうに、それぞれがガラタ地区に居を構えてビジネスをし、モスク、教会もあってコミュニティーが形成されている。

おもしろいのは、トルコの都市問題の専門家の人が報告をしていますが、決して一緒に住んでいるわけではないのです。それぞれの公共空間のつくり方だとか使い方も違うのをそのまますみ分けさせているから、うまく残っているのです。これが共和国以降は、人民交換といいますか、民族交換をやって、トルコ人が支配的なエリアになってきます。従来、例えばユダヤ人とかが使っていたエリアをトルコ人が使い出す。そうすると、使い方が合わないんです。そうすることで、その辺の空間が随分変わってきたと言われています。少なくともガラタ地区がコスモポリタンといわれる、共存をしていたときには、ある意味で非常にはっきりしたすみ分けが起こっていて、それで各独特のコミュニティーが残っていたというわけです。こういったコスモポリタン性を、文化が交流すると言いますが、同時に居住の体制と随分かかわってきている問題であるということです。

オスマン帝国から共和国になると、世界都市という意味では、随分厳しい条件になってきて、かなり地盤沈下をしてきている。何でそうなったかというと、多くの原因と理由があると思います。私が理解している範囲では、急激に人口が増加して、無計画に街が広がってしまったことがあります。

 

 

 

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