「グローバル」都市の条件
建物だとか街のつくりというのは、そこに住む人々の生活のありようを当然、街の形が緩やかに形作っていくと思いますが、同時に、新しい人が入ってくれば、空間の使い方が変わります。しかも、建物の使い方が変わって、場所の持つ意味が変わってきます。結局、世界都市と言われるようなところは、人も物も常に流動的に動いていますから、その変化は確かにダイナミズム、文化のバイタリティーを生み出す温床になる。同時に、それを側面からサポートしていくようなシステムがないとカオスになっていく。この両面の非常に危ないところも抱えているものと思います。
また、特に現代の現象としては、都市に住んでいる人たち、ビジネスのためにいる人、観光のために来る人、さまざまな人がいる中で、特に、住んでいる人たちは、いろいろな権利を主張する。時代と現実の状況に即した望ましい社会像というものをある意味で象徴してくれる。そういう役割をその都市に期待するという動きがすごく強くなってきていると思います。
イスタンブールの場合もそうなんですが、社会変化があまりに激しく、さまざまな要素が流入してくる。かつての栄光のイスタンブールが見えにくい。住みにくい。汚くなっていく。よそ者は入ってくる。では、イスタンブールとは何なんだ。住みやすいトルコを代表する都市ではなかったのか。都市というのは一体、だれのどういう文化をリプレゼントするべきものなのか、そういう理論にいってしまう。そうなりますと、これは一つの議論としてはわかるのですが、世界都市というからには、一つの国というものを超えた都市としての性格が歴史上、綿々と積み重ねられてきているものですから、文化の議論になったときに、この国の文化をリプレゼントするのが都市かというと、そうではない部分がやっぱり入ってくると思います。
ですから、世界都市というのは、一国の歴史や文化というものを超える、開かれた性格を持つことがおそらく望まれるのだろうと思います。ここで都市の変化を側面から支えていくような政策の必要性がおそらく出てくるだろうと思っています。
まず、栄光のイスタンブールといいますか、間違いなく世界都市であった19世紀末から20世紀初めまでの状況を見ますと、都市の魅力は、都市自身は動かない文化資本で、それ自体は動きませんから、その魅力を発信する、わからせる、伝えるという努力が絶対に必要だと思うのです。
オスマン帝国時代には一体どういうふうになっていたかといいますと、ガラタ地区に最も早く外国人が住みついた。特にギリシャ人が多かった。ここのギリシャ人を中心とする外国人コミュニティーがイスタンブール旅行をかなり早い時期から計画しています。資料が非常に多く残っています。1800年代の初めあたりから、とりわけフランス、ロンドンの旅行者に対して、イスタンブールの旅を紹介するような、試みをしています。これは、彼らが独断でやったのか、あるいは、言葉の問題がありますので、外国人の協力を得てやったのか、わからないのですが、少なくともギリシャ人を中心とする外国人コミュニティーが旅行ビジネスに非常に深くかかわっています。フランス語で書かれたイスタンブールを紹介するチラシ、ポスターが非常に多くつくられ、同時に、イスタンブールで、交通機関、ホテルをどんどん整備していく。逆にオリエンタリズム的なイメージを、逆手にとって、かなり利用しています。ポスターにもそのイメージを当然強く使いますし、それはなかなかに賢いやり方といいますか、よくやっていると思います。
非常におもしろいのは、外国に対してイスタンブールという街をプロモートするものもありますが、同時に、国内のブルジョア向けに、ヨーロッパ旅行のパックツアーがある。これは非常に早く、1862年に計画されて、63年に150人のツアーで募集されています。イスタンブール―パリ―マルセイユ―リヨン―ベルサイユ―ロンドン―ベルギー―ドイツ―ウィーン―イスタンブール、こういうルートで回り、75オスマンポンドです。現在の価値に直しにくいのですが、寄宿生活をする外国のリセに1年間入りますと、授業料、寄宿料すべて込みで大体45オスマンポンドと言われていますから、いかに高いかということがわかります。これだけのことを国内のブルジョアに向けてやっています。