菊竹 本日は佐貫先生からお話を伺うことにしております。佐貫先生は日本列島改造論の陰のライターでして、田中角栄元首相のブレーンとして私どもは大変いろいろなことでご指導いただきました。その後、東急田園都市の計画でネットワーク都市という計画を指導いただき、例えば、ネットワークの一つである商店街が駅前からどういうスピードで成長していくかなど、統計的データを駆使して、都市発展のプロセスを示していただきました。
経済学と建築学の2つの学位をもっていまして、学者として、統計数字を使ったお話が伺えると思っております。
人口の長期的増減パターン
佐貫 「私の東京都市論」というテーマで、レポートをさせていただきます。なお「5つの提案」を副題にしています。
5つの提案は、データの裏づけをきちっとして、本来なら原価計算までやりまして、大体収支採算は合うんだということでやりたいわけですが、残念ながら今回はそこまで手がとどいていません。
第1に、長期的視点から見た東京の地位の変遷について報告したいと思います。1093年、今から900年前の日本の人口は1,000万人です。そのときの二大都市は、京都と平泉でした。京都の人口は16万人、平泉は15万人。ところが、1995年の一番新しい国勢調査によりますと、京都は146万人で900年間で9.1倍になり、現在は第6位の都市です。しかし、平泉は900年たってみると、現在の人口は9,288人。何とこの900年間に16分の1になり、1,773番目の小さい町に変わってしまいました。
では、なぜ900年前にこれだけ栄えたのか。藤原4代の栄枯盛衰と直結しております。清衡、基衡、秀衡の藤原3代に加えて源頼朝に35歳で滅ぼされた泰衡までの約100年間のプロジェクトスケールを見れば、十分理解できると思います。初代清衡のときに、中尊寺が建てられ、堂塔が44、禅坊が400、金堂はご高承のとおりです。また、2代目の基衡は毛越寺を建てました。そのスケールは中尊寺以上のものであった。それは禅坊が500余で中尊寺よりも100余も大きいことからも、全体としても中尊寺よりももっと大きかった。そういうスケールの大きい設備投資ができたということは、その下部構造に藤原4代の経済力があったとみられます。
第1番目は、農業生産力が極めて大きかった。北上盆地とは、標高200m以下であって、高低差が20mという前提条件で、キルベメーターで測定しますと、北上盆地は1,800km2(1,000万坪)というスケールの大きい平坦地をもっており、大変な農業生産力を持っていました。
第2番目は金の生産力が大きかった。金の生産量は1年間に1,875kg(500貫目)です。それは、1つの鉱区に1,500人として、20鉱区あったわけですから、大体3万人ぐらい働いていた可能性があったということです。と同時に、金の生産力の後ろには採掘技術、土木技術、製錬技術、冶金技術、新素材の技術基盤があったことが、平泉を繁栄させた原因です。
3番目は、馬の生産力が極めて大きかった。実は、この時代、武士が使っていた馬は、織田信長も例外ではなく、日本列島ではみんなロバであったわけですが、平泉が生産したのは馬でした。したがって、平泉の馬とロバの交換比率は、平泉の馬が1頭に対して、ロバは10頭であったわけです。それほどすごい優秀な馬だったわけですから、1]軍事力、2]輸送力、3]情報伝達力として卓抜した力をもつことになりました。
4番目は絹、毛皮、アザラシ、熊、狐等々の毛皮だけでなく、玉、香木、玉鋼といった、日本刀の原材料になるとか、希少価値をもった品物を生産していた。日露戦争でロシアの軍隊は毛皮を着ていたが、日本軍は着ていないために凍傷で苦しみました。これと同じように、平泉で戦争をしますと、藤原家の軍隊は毛皮を着て厳寒の中で作戦することができたために領土保全ができたのに反して、その他の軍隊は冬の戦争ができなかったわけです。
5番目には、魚を保存食という形で、乾燥して腐らない食品をつくっていた。ということは、平泉4代はすべてミイラになっておりますから、そういうミイラにするような医療技術を持っていた。そういう経済力もあったわけですから、東大寺の大仏の鍍金の寄進を天皇から要請されたとき、鎌倉幕府の源頼朝は1,000両しか寄附しなかったのに、藤原秀衡は5,000両寄附したほど経済力のスケールの大きさを誇っていました。