ところが、あの主人公はコピーであってもすでに存在しているものは認めてやれと言っているんです。こういうことを日本人が言うと、アメリカ人は、日本はさんざんコピーをして、さんざん著作権裁判でひどいめにあったからこんなマンガを作って言いわけしているんだと受け取りそうですが、これに対して日本の知識人は何と答えるのか。アメリカのほうを正しいと認めて、コピーをしている日本はこんなマンガを作っていいわけない。しかし、今に日本のほうがコピーされる立場になるからなと、こんなコメントしかしないでしょうね。ですから、オリジナルとコピーの争いそのものがくだらんということを言う日本人はいないのかと。このマンガは言っているわけなんですけれどもね。
日本の江戸時代、京都にはおおっぴらにコピーを製造して販売する職人とか産業がありまして、掛け軸なんていうのは偽物だらけなわけです。だから、日本中の家庭に雪舟の掛け軸などが普及していまして、ほとんど偽物で、偽物と承知しながら皆購入し飾る。見分けがつかないぐらいの作品も多く、それはそれでいいじゃないかと言って日本人は偽物をエンジョイしていた文化があるわけです。これはイタリアにもあるわけです。ですから、私は思いますけれども、千年もの文化がある国はそうなってくる。ところがアメリカはまだ新しい。俺が作った、誰が作ったと言って儲けようなんて、まだ文化国になってない。あるいは、本当の芸術家は、次々とつくるのが楽しいんであって、みんなが真似してくれるなら光栄だと、そんなことを摘発して金をとってあるくよりも、その暇に、自分はもう次をつくりたいんだと言うのではないでしようか。そこまで「ミュウツーの逆襲」のなかにあったかどうか、僕は全然見てないんで知りませんけれども、そういう主張ができる文化が日本と北イタリアには自然にあるんですよね。なまじ学問をした人には、こういう発想がない。こういうのがリテラシーの違いであって、リテラシーにも、深い教養を発するリテラシーもあるのではないかという1例で申し上げました。
牧野 約束の時間が20分近く過ぎてしまいました。事務局と相談して、積み残したものを、これから取り込んでいきたいと思いますが、幸いなことにこのフォーラムは12回連続ということで、きょうはまだ2回目でございます。2回目にして、たくさんの課題を皆様からいただいた感じもありますし、我々ももっと話したいこともあるわけです。これを積み上げて、12回終わったときには、いい形にしたいと思っております。
きょうは、皆さん、長い間ありがとうございました。
(終了)