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私は「物事を成す」ことを次のようにたとえている、それは「やりたいことがあるとき、すぐにできるできないではなく、心のなかに器を作り、その器に一滴ずつでもいいから水を注ぎつづけることが大切で、それはいつかはどこかで溢れる。溢れたときにできる」と、そんな感じをもっている。私のなかではそのとき「溢れた」んだと思う。自分のいるお寺でやりたいし、やはり、その“聞思洞”の名をひきつぎたいと思い、あとは住所の平野郷から取って「ひらの聞思洞」と名づけたわけである。2つのお寺は、講師をよんでいたが、私は私なりのスタイルでと考え、それぞれが自分の事を語るという集いにしたわけだ。

さらに「聞思」という言葉になると800年の流れになる。浄土真宗とよばれる、仏教のひとつの流れを開いた親鸞(しんらん)は、800年前のお坊さんだが、その主著である「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」のなかで「聞思して遅慮(ちりょ)することなかれ」と述べている。「聞思」は「聞き、思う」、「遅慮」は「遅く慮(おもんはか)る」。「私を、世界を、教えを聞き、自分自身で考えなさい」「周りばかり見回して、遅く配慮ばかりしていてはならない」という教えである。今も私たちの宗派では「浄土真宗は聞法(もんほう)に尽きる」と言われる。「法(物事の道理)」を聞き抜くことこそいちばん大切なことであると。

その親鸞から数えて8代目の孫にあたる蓮如(れんにょ)は、日本の歴史で唯一、市民革命的な性格を秘めているといわれる一向一揆という運動を戦国時代に引き起こす基盤を開いたお坊さんであるが、500年前に、もっとはっきりと、「物をいえいえ」「物を言えば、心の底も聞こえるし、また他者から直して貰うこともできる」「物事は他者によく問いなさい」「寄り合いをし、談合(語り合い)しなさい」と語っている。

宗教といえば、何か無条件に「祈る」ことであるように思っている人も多いようだ。それは自分の外に何かを立てて、それにすがったり、頼ったりすること、それを「祈り」と言っているのである。「祈り」とは、そうではなく「世界を聴き、私を語る」その全体が「祈り」の姿なのである。

 

 

 

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