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東武東上線の上福岡駅の北東部にあった福岡河岸周辺は、今でも昔の河岸の面影が比較的よく残っているところである。現在、新河岸川にかかる養老橋(江戸時代は古市場橋)の手前に駐車場に隣接して、「元廻漕問屋 吉野屋」と側面に黒書された小さな土蔵が一つだけ残されている。この吉野家は、かつては8艘の船を使用し、12棟の蔵を持って営業していたそうで、鉄道開通後も昭和の初期まで回漕業を営んでいた家である。

また、少し高台になった所には、福田屋の木造三階建ての特徴的な建物が立っている。福田屋の建物は、「福岡河岸記念館」として見違えるように整備され、明治中頃の舟運と問屋の暮らしを展示している。(写真2参照)ここも土蔵や付属建物の大部分は既に取り壊され、現在残っているのは、主屋、離れ、文庫蔵の3棟である。主屋は帳場を備えた店舗部分と使用人部屋を含めた住居部分が合わさった建物で、商家のたたづまいをよく伝えている。木造三階建の離れは、近江八景を浮き彫りにした竪繁障子もある凝った建物で、市指定文化財となっている。また、もと江戸屋のあったと言われる養老橋下流側には、「新河岸川と福岡河岸」と題する説明板が立てられており、そこには、河岸の由来と歴史が書かれている。

この地域には、福岡河岸の他に同じ東上線側に百目木(どうめき)河岸があり、養老橋を渡った対岸に古市場河岸があった。対岸の古市場河岸の開設は、福岡河岸の開設よりも古く、貞享年間(1684-88)と言われている。この河岸は、最初は川越藩の御用荷物(米、炭、薪等)を江戸に運ぶのを主たる目的にしていたようである。しかし、後には一般の荷物も運ぶようになり、特に醤油、薪などを中心に取り扱ったと言われている。

 

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写真2 福岡河岸記念館

 

もともと、古市場河岸側の廻漕店の中心は、沢田家であったが、今は蔵等も残っていない。平成3年に調査に行ったときは、自家の醤油輸送を中心に回漕業を営んでいた橋本屋の建物群が立ち並んでおり、醤油工場も残されていたが、最近行ってみると建物はすっかり取り壊され、何も無い状態になっており、養老橋も新しいものが建設中であった。

古市場河岸から川沿いに十分位行った所に蓮光寺がある。この寺は徳川家康も鷹狩りの際にはよく立ち寄ったといわれ、今も残っている山門はなかなか趣のあるものである。また、この両河岸の舟問屋で使われていた帳場机・水揚帳・すずり・銭箱資料等は上福岡市立歴史民俗資料館(上福岡市長宮1-2-11)に展示されており、非常に参考になる。さらに、新河岸川の福岡橋のたもとに立つ大杉神社は、舟運が隆盛を誇った頃、船頭や船関係者に厚く信仰されていたもので、拝殿に掲げられた天狗の面は、100人余りの舟運関係者が航行の安全を祈って奉納したものである。市有形民俗文化財に指定されている。

さらに下流に行くと、志木引又河岸と対岸の宗岡(宗丘)河岸がある。東武東上線志木駅の東北、志木市役所の近くである。志木というと、新興住宅地のような気がするが、志木駅で電車を降りて、バス道を市役所の方へ向かうと、川手前の道路の両側に格子戸のついた蔵造り風のがっちりした店舗があちこちに見られる。この辺りが古くから発展した町であることが分かる。県立文書館所蔵の『河川調』には、「志木河岸ハ元禄元年(1688)五月ニ創マレリト云フ」とあり、この川筋でも古い河岸の一つであることがわかる。

この志木引又河岸は、新河岸川と奥州街道が交差する交通の要衝の地にあり、月に六回市が立つ六斎市が開かれていた。河岸場の繁栄も、これらの状況と不可分の関係にあったことであろう。

 

 

 

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