しかし、なかなか極印を受けない舟もあったようで、同じ資料の元禄9年(1696)の項には、再度極印を受けることを指示するとともに、「其の所の大屋名主共、委細を相改め、船数残らず帳面に記し、奉行に差出すべし。」と大屋や名主がきちっと調査して申告することを命じている。
この頃の川舟の取り締まりに当たった役職者としては、『古事類苑』に収録されている延宝6年(1678)の『江戸鑑』には、「御舟改墨印衆」という肩書きで勝野庄右衛門、斉藤忠右衛門の名が見え、それぞれ禄高は200俵、300俵となっている。また、貞享3年(1686)の『武鑑』には、川船奉行として、山角豊右衛門の名が見え、禄高は670石である。さらに、『吏徴』には、元禄9年(1696)3月29日に置かれた川船役人について「川船改役一人 御勘定奉行支配焼火間 150俵高 御役扶持10人扶持 御手当金50両 手代17人」とかかれている。これらの記述により、この頃の関係者の役柄がほぼ推定できる。
3. 享保の改訂
享保の時代は、吉宗が8代将軍になって享保の改革が始まった頃である。勘定奉行の支配下にあった川舟管理制度も大きく改正され、舟の数のみならず大きさまで調べて登録するために、舟の種類に応じて寸法の計測方法を定め、計測の結果に基づいて全ての舟に極印を打ち、それに基づいて納めるべき税額を定めた規則を公布している。
その内容は、『徳川禁令考』の享保4年(1719)の項に、次の通り述べられている。
「この度川船間尺相改め、極印打ち替え候に付き、江戸並びに関東筋川船は、何舟によらず改を請け、極印之を受くべし。江戸の船は、来たる子(年)正月より同六月まで、在々に之有る船は、来年中を限り、江戸運送の序次第、川船奉行役所へ船乗行き、川船奉行へ相達し、差図次第極印これを請くべし。(以下略)」
この時の舟改めは、江戸及び関東地方の川舟の全てについて極印の打ち代えを実施しており、舟改めに当たっては、これまでに極印をもらい遅れていた舟も、申し出てこれを受けること、江戸運送の機会のない舟は舟数等の明細をまとめて川船奉行に提出することを命じている。また、武家の乗り舟その他特別な事情があり、極印を受けない舟についても舟数等の明細書を川船奉行に提出し、帳面に書付けられるべきである旨が達しられている。この時の舟改めは、相当に厳しかったようである。この時の通達には、今までの通達には無かった「川船間尺相改め」という言葉が書かれているが、これが川舟の長さや横幅を計測して年貢等の基準とするための「間尺」といわれるものである。
また、同じ資料の享保6年(1721)の項には、従来の川船奉行に代わって、作事棟梁鶴飛騨が船改め役につき、今後は年貢、役銀の取立てはもちろん、舟改め、新造船や潰舟のことまで、その指図に従うよう命じられたことが出ている。
「関八州川船の事、去子年迄は川船奉行相改候処、向後棟梁鶴飛騨相改候筈に付、御年貢役銀取立候儀は勿論、船改め始め、新造船、潰舟等の儀迄、諸事飛騨指図の趣違背仕ざる様に、川船所持の者共申し付べき旨、町中触るべく知せるもの也。」
この鶴氏は、武士の身分ではなく、三河以来大工棟梁として徳川家に仕えた町人である。しかし、やはり武士でないことに支障があったのか、翌享保7年には、業務中のみ帯刀を許す通達が出ている。この変革は、船改めの際に、船の大きさを把握するための寸法計測が必要となってきた等と無関係ではないであろう。以後この職は鶴氏の子孫が代々勤めた。しかし、その後時代が下ると時々で人が変わることとなる。