日本財団 図書館


五月山は万葉歌人のメッカだった

 

『五月山梢を高みほととぎす

鳴く音すらなる恋もするかな』

古今和歌集 紀貫之

 

『五月山卯の花月夜

ほととぎす聞けども

飽かずまた鳴かぬかも』

万葉集巻十

 

019-1.gif

 

五月山の五月は、ほととぎすが鳴き、卯の花が咲き乱れていました、平安時代から。よく知られている歌枕に、『吉野山の桜』や『須磨の浦の月』がありますが、『五月山』も歌に詠まれる名所で、有名な歌人たちが池田を訪れていました。紀貫之さんも。昔の芸術家は、さすがに、見る眼があって、五月山に魅せられ足繁く通っていたのです。

昔々、五月山周辺の村では、『味噌と割り木があれば生活できる』と言われ味噌作りとシバシイ(柴採り)は自給自足の生活の基本でした。山を持たない小作人は遠くの山へ出かけて柴を集め、お金のある人は『山の掃除』を請け負い、下枝を採っていたそうです。不届き者は、山番の目を盗んで不法にシバシイをしたそうですが、『山の掃除』と言うことで、ある程度黙認されていました。石橋や神田では明治の頃山を売ってしまったので村の共有山がなく、止々呂美や能勢まで、大八車を引いてシバシイにいっていました。採ってきた柴、割り木は自宅の中二階や軒下にためこんでいましたが、冬の間に年分の燃料を確保することは大変な苦労でした。しかし、昭和30年ごろから石炭が、40年にはプロパンガスが家庭に入って来るようになって私たちはシバシイから解放され、豊かな生活がスタートしました。そうして、燃料革命と引き換えに私たちが親しんで来た里山は人が入らなくなり、荒廃が始まったのです。

池田は、都市であるとともに大きな農村で、干ばつは人々の生死を左右する災害でもありました。近世の池田でも、雨乞い行事がおこなわれていましたが、最も盛んだったのは、五月山に登山して愛宕神社に降雨を祈願する方法だったと『伊居太神社日記』に記されています。そして、雨乞いの効あって雨が降ると、その日の夜、雨乞いのお礼として愛宕山で松明が焚かれました。8月24日夜行われる『がんがら火』の文字火が行われるようになったのは近世後期のことで、それ以前は灯籠に灯火がつけられていたそうです。さて、21世紀は愛宕神社が今までのように、私たちの願いを聞いてくれるかどうか怪しくなって来ました。『地球温暖化、渇水』今年からはちょっと早目に雨乞いをしたほうがよさそうです。

引用 参考文献 池田町史 池田市史 レポート 萩原敏

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION