16] 灯節の夜を待つ南大街−日が暮れると、右手に見える飾り提灯に火が入れられ、見物人を楽しませる。一六日の朝にはこれらは全て撤去されて普段のまちに戻ってしまう。
1] 一九六〇年代まで 秧歌の運営は、城壁内を南北に分けた北社と南社のいずれかが主体になっておこなっていた。毎年の分担は、代表者がさいころを振って決めていたそうだ。秧歌のだしものについては、北城は高跳(竹馬の上で装束をつけて踊るもの)、東城は早船(船の模型を腰につけて踊る)、南城は龍灯、西城は獅子舞いというように東・西・南・北の四つの地域それぞれに得意の演目があったという。当時の秧歌は一四日から一六日までの三日間をとおして、夜の七時から夜中じゅうおこなわれていた。秧歌隊の練り歩くルートは、丁度干字街と呼ばれた当時のメインストリート上にあたっている。南門を出発した隊列は、南大街を北上し、城隍廟街→政府街→南大街→西大街→東大街→北大街の順番で練り歩き、市楼の附近や大きな交差点、寺廟の前では立ち止まって、それぞれの演技をきそったという。とくに市楼付近では盛大に演技がおこなわれたそうだ。
2] 一九六〇年代から一九八〇年代まで 一九六〇年代に秧歌の運営は県政府に管理されるようになった。それぞれの地域で分担していただしものも、政府や工場などの単位ごとの分担になる。ルートも時間も短縮されてしまった。
下西門から西大街→南大街→政府街→南大街という狭い範囲で一五日の午前中だけおなわれるようになった。立ち止まって演技をする場所も寺や廟は除外され、県政府の前と一九七〇年代に建設された平遥戯院の前庭に限定される。
3] 一九八〇年代から 徒歩で回っていた秧歌隊がトラックの荷台に乗って演技するようになったのはこの頃である。南大街が車両乗り入れ禁止となったことも原因して、秧歌のルートも西大街から東大街をぬけて城壁の外周道路をまわるようになった。
もっとも華やかだった南大街は、商店街であると同時に祝祭の最大の舞台でもあった。秧歌のルートとしても、そして個人的な祝祭の婚礼・葬儀行列のルートとしても使われなくなってしまった。歴史的都市として脚光をあびるにつれて、住民のためというよりも観光客のために車両のりいれ禁止になったからだ。そして一九九六年からは全ての店が観光客用に変わり、商店街としての機能すら失われている。
灯節
元宵節の晩は灯節ともいって、住民や店舗の軒先に飾り提灯をつるしてその華麗さを競う。
秧歌隊が通らなくなった南大街ではあるけれども、灯節に関しては現在でも主な舞台になっている。干支をかたどった提灯もあれば毛沢東の顔もある。それを見物する人々の手にも小さな提灯が握られている。工場の敷地では晋劇も上演されているから、人の賑わいは昼間の秧歌見物にひけをとらない。一九九四年には新しいイヴェントも始まっている。八時丁度に城壁の上を一周するようにたいまつを持った人々がならび、城門の上に置かれた一トンの炭に火が放たれる。西門の上では腰鼓隊と龍灯がおどる。一年最初の満月もかすむ程の明るさだ。
春節の住まいもまちも華やかに演出され、日常とはちがう祝祭の舞台として人々を楽しませている。とはいえ、血縁家族が住まうために作られた住宅を共同利用せざるをえなくなったために、重要な祭祀空間としての正房の使用が規範どおりおこなえなくなっていることも事実である。このことについて、無関心な住民はいない。できれば祖先も天地爺も正房の中央にまつりたいのだ。現状としては、せめて居室に祖先や神々の牌位を置かないなど、できる範囲での規範の実現で折り合いをつけるしかない。商店街であると同時に祝祭の最大の舞台であった南大街もまた過去のものになり、城壁外にその機能を移しつつある。このようにやむを得ない変化と折り合いをつけつつ、平遥人は祝祭の住まい空間を実現している。
…<都市史建築史研究>