これが亡者踊りといわれる雰囲気をかもし出し、観る人々に神秘的で怪しい感じをあたえる。
この頭巾(ずきん)は、昔は麻・木綿を用いたが、現在は殆ど黒のシンモスで作る。おおよその寸法は、前の長さ八五センチ、後の長さ六九センチ・巾が三一センチほど。被(かむ)った際に目をのぞかせる「空(あき)」を作り、前面中央に目立たないボタンなどを着け、左右の区切りとする。目穴(空(あき))に目の位置を合わせて被(かむ)り、頭巾をとめるため、縦六つ折りにした手拭いで鉢巻きをする。
この独特の「ひこさ頭巾(ずきん)」の由来は明確でない。明治の初期頃、東京で観た阪東彦三郎(ばんどうひこさぶろう)の歌舞伎(かぶき)芝居の黒子(くろこ)からヒントを得たとする説や、秋田県由利地方の農作業で女性が用いる、日除(よ)け虫除(よ)け用の覆面「はなふくべ」と関連がある、という説などがある。
いずれこれは、自分の顔を隠して消し、自分が亡者=先祖の精霊になり替(かわ)って踊る、頭巾の闇の中で精霊と交わる、ための頭巾である。盆に帰ってくる先祖の霊を慰める、祖霊信仰から生まれたものである。
現在は、煌煌(こうこう)たる電飾の下での大観光行事となり、民俗の光と影は薄れてしまったが、私の少年時代(昭和十年代)は、旧暦の盆なので季節は初秋であった。月光と篝火の明かりだけでの踊りは、いかにも幻想的であった。
踊る人も観る人も殆ど町内や近郷に限られ、笛の音は冴え、お囃子の太鼓は遠く町の屋根屋根の上を響き渡った。
遅くまで踊り続けるので、夜更(ふ)けるとともに眠気もともなった陶酔感が深まり、私は地にひきこまれるような感じにおそわれた。
まだ舗装されない町の大通りの道には、じかに伝わる土の感触(しょく)があった。踊りの列が一斉に足をひく時、地を擦(す)る音が潮さいのように響いてきた。ひそやかに土埃りが立ち、土の匂いが鼻をついた。
大地の上で踊るので、草履(ぞうり)も擦(す)り切れるのが早かった。よく鼻緒(はなお)を切らすので、要心のため予備の分を二三足腰にぶら下げたり、帯にはさみこんだりして踊っていた。
ようやく踊りが終って、家までの帰り道は子ども心に淋しく長かった。踊り手たちも三三五々連れ立って帰ったが、人通りは少なかった。秋の夜気は肌寒く急ぎ足になった。
西馬音内川にかかる長い橋を渡るとき、何度も後を振り返った。もう踊り手たちの姿は見えないのに、絶え間なく数多くの足音が聞こえてくる思いがしたからである。
月光の下で川の面が輝いていた。日中先祖の霊を送り、供物とともに流した川である。
こうした素朴な民俗世界の情趣は、戦後も昭和三十年代(高度経済成長時代以前)までは、まだ影を留めていたように思う。
今は亡き劇作家・北条秀司氏は、「鳥海山を頭上にいただく西馬音内(にしもない)という古い町で、夜更けに見せてもらった亡者踊りは、一生私の眼底をさらないであろう。舞踏家の誰かが、日本でもっとも手振りの美しい盆踊りと賛美したのも、それほど大きな誇張ではないと思う」(演劇太平記二)と、嘆賞している。
…<詩人・民話伝承館長>