日本財団 図書館


<昭和戦前>

渡名喜島で近海鰹漁業が始まったのは明治39(1906)年である。大正中期には最盛期を迎え、村の基幹産業となり順調な発展を見せると思われていたが、大正末の経済不況に加え、昭和5年には鰹節の相場が大暴落し、大きな打撃を受けた。

そのため、昭和初期には当時日本の信託当時領であったミクロネシアで島の多くの男手が鰹漁の漁夫として働き、渡名喜島に送金するようになった。その当時、渡名喜村の現金収入の大部分は南洋からの送金であった。昭和18年ごろからは太平洋戦争の戦局により、現金収入の枯渇を余儀なくされた。昭和19年の那覇市の10・10空襲後は、引揚者で島の人口は900人台から1500人台に増加した。

<戦後〜現在>

渡名喜島は、太平洋戦争で「鉄の暴風」にみまわれることがなかったため、戦後も昔の面影を残している。砂地の道にフクギの防風林、その間にのぞく赤瓦屋根の家々は沖縄の伝統的な集落景観を保っている。

昭和21年から渡名喜村の戦後復興が始まる。終戦直後の一時期、南洋諸島や沖縄本島からの引揚者が殺到し、推定人口2100名を数えるまでとなった。豊富な労働力と援助物資を背景として、昭和30年頃には沖縄屈指の漁港となり、鰹漁で再び活況を呈したが、昭和30年代後半の高度経済成長によって全国的に過疎化が進行し、渡名喜村でも沖縄本島中南部への挙家離村が増え、過疎化が進行し人口は減少していった。

昭和26年の1601人から減少の一途をたどり、平成7年には616人となり、過疎化と高齢化が現在の島の課題となっている。村の主要産業は漁業と農業である。農業においては、もちきび、シマニンジンが主要作物となっており、特に渡名喜島ブランドのもちきびは定評を得ている。また、平成9年8月には、渡名喜村は県立自然公園に指定され、平成12年5月には国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定され、現在、伝統的家屋の保存・修復が進められている。今後、伝統と自然が息づく島として、島の将来が期待されている。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION