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(2) 渡名喜島の概況

1) 島の概況と村づくりの取り組み

1] 沿革

<先史時代>

渡名喜島での人々の生活の起源は、約3500年前まで遡ることができる。貝塚時代後期になると、アンジェーラやアーカル原の平地に集落が営まれるようになり、さらに西ノ底原や兼久原一帯の広い平野部に大きな集落ができるようになった。西ノ底原遺跡からは人骨8体が発見された。

<グスク時代>

沖縄本島より100年遅れて、13世紀になると渡名喜島にも島全体を統率する豪族(按司)が出現するようになる。一族を保護し祭政の安定を施すために小高い岩山にグスクをつくり、そこに居を構えるようになった。里遺跡はその時代の遺跡である。いくつかあった血縁的小集落(マキョ)は、いつの頃からか西森(ニシムイ)を背に北風を防ぐようにふもとに集合して、現集落の東部に一つの集落を形成した。その後、人口の増加に伴って西岸の漁港地に集落が拡大していったと考えられる。4つのマキョの祭祀場が東区に相互に近接して存在しており、今でもムラの祭祀と深く関わっていることからもうなづける。

<琉球王国時代>

薩摩侵攻(1609年)以前の琉球王国時代の渡名喜の歴史資料は極めて少ないが、中国への航路に位置するために早くからその存在が知られており、渡名喜島が航海上の要所としての役割を果たしてことがうかがえる。『おもろそうし』が謡われた16世紀頃にはすでに首里王府の統治下にあったと考えられる。渡名喜に課せられた租税出納の管轄は首里王府の久米方代官によってなされ、王府の徴税システムに明確に位置づけられていた。南部山地のウーンダ(大本田)にヒータティヤ(烽火台)が設置され、久米島→渡名喜島→慶良間諸島→首里王府の通信ルートの一部を担っていた。

<明治・大正時代>

明治29年3月に那覇・首里を除く沖縄県は5郡に編成され、渡名喜は久米島、慶良間諸島、鳥島、大東島とともに島尻郡に編入された。明治41年の島嶼町村制により、渡名喜島・入砂島をもって渡名喜村が成立した。

明治10年代になると人口が増え始め、耕地拡大のために明治20年頃、地頭税(ジントゥデー)が住民の同意を得て全山の山林を焼き払い、段畑が広い範囲で開拓され、芋の栽培が行われていたが、その後大きな飢餓にみまわれたこともあった。それまで島は密林で覆われ、切り出された木々は火力の強い渡名喜薪(トナチダムン)として名声を得ていた。

 

 

 

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