芸術院は美術の第一部、文学の第二部、音楽、演劇の第三部と別れている。私は画も音楽もダメだったし、他の部と違って第一部は部の長老ではなく、掃除当番的な役割の者がすることになっている。長老が部長になる他の部長の中に入って、ただでさえ私は肩身が狭かった。第一部の奥田部長には、私は画がいかに下手だったかを白状し、團部長には私が音痴であることを打ち明けた。團さんは事もなげに言われた。
「音痴だって、ある程度まではやれますよ。軍楽隊での経験から言いますと、軍は音楽的素養なんて斟酌せずに、隊員を取るんです。それを一年も殴って教えると、一応、管楽器などこなすようになるもんですよ」
「團さんは専攻が作曲でしょう、軍楽隊では何をなさっていたんです?」
と私は質問した。作曲する人でもピアノくらいは弾くだろうが、軍楽隊は徒歩で、あるいは馬上で行進しながら演奏する。打楽器と管楽器以外は使えない。まさかピアノを弾きながら行進することはできない。
「小太鼓ですよ。最初はバチで丸い木の椅子を叩くんですあれは屈辱的でした」
と團さんは笑われるのである。やがて日本を代表する作曲家になる人が、まじめくさって木のスツールを叩く図を想像すると、私も声を出して笑った。それと同時に音痴コンプレックスが、雲散霧消した。
すぐれた芸術家の中には、他人、殊に才能とは縁のない人を受け付けない、厳しい人もいる。いってみれば、槍ヶ岳で、そこにたどりつくまでが大変な弧峰である。そういう芸術家も偉いのだろう。しかしまた富士山のように裾を長くひいて、裾野には緑の野もあるし人も住むが、かといって雪をいただく頂上には容易に近寄れない。こういう万人が麓から高峰を仰ぎ、親しみを持って接することのできる才能もある。
團さんは富士山型の芸術家である。音楽に無縁な私には才能を判定できないが、團さんが「大人(タイジン)」であることは間違いない。私だって年もなぐられれば、トランペットくらい吹けるようになると、音楽に対する脅えを無くせたのは、團さんのおかげなのである。