柳川検校
生年は不明であるが、延宝8年(1680)没。一名(いちな)は「応一」。(名前の一は琵琶法師の所属流派を表す。某一のように号する。都、市も使用する)
現在京都を中心に伝承されている三味線の流派「柳川流」の鼻祖。三味線の名手であり、また三味線組歌(三味線が日本に渡来後、当時の琵琶法師が手にし、苦心の末はじめて芸術作品としての三味線曲を作曲した。この一連の曲をいう)の改訂、補調、作曲をしたことで知られている。(當道組織での地位などについては省略する)
「糸竹初心集」(寛文4年 1664)に「近代山井の弟子柳川検校、この道に心をよせ寤寐に忘れず、天性その骨をえて当代の名人也。色あい揆(ばち)のしなやかなる事、中々の凡人とは覚えず、さるによって、世に柳川流といふ」とある。また「色道大鏡」(延宝6年 1678)に「寛永(1624-44)のはじめ、摂州大阪に「加賀都」、「城秀」という「座頭」両人世に出、三味線を引き出すに、その堪能なる事、古今に独歩たり、東武にわたりて、大家高門の翫者となり、既に盲目の極官に昇進す。
「加賀一」は「柳川検校」、「城秀」は「八橋検校」となれり。今にいたり三味線において「柳川流」、「八橋流」というは是也。其後、出世したる検校、勾當の内に、此両検校をあざむくほどの名人あまたあれども、柳川、八橋検校は、三味線の曩祖たり 云々」とある。また
「松の葉」(元禄16年 1603)には「柳川検校」が補調、作曲、編集した組歌は「本手」、「端手」、「裏組」各7曲、および「秘曲」8曲で、これに浅利検校作曲の1曲を加えた30曲を「柳川流」の伝承曲としたことが記されている。これらの曲は京都を中心として伝承されている。
なお「柳川検校」が実際に作曲したのは「端手」以下のものといわれているが、「端手」は「本手」の作曲者の一人の「虎沢検校」との共作ともいわれてる。いずれにしても何らかの手を加えたことは間違いのないことである。
検校の表芸の琵琶は「三代関」によると「妙観派」に属し、「藤下いさ一」の下で寛永16年(1639)に検校登官、その弟子には「篠原きん一」があるが、この「篠原」の弟子には三味線を習った形跡の人はなく、三味線の系統は琵琶には関係なく続いたと思われる。
柳川流の系統を示すと(名前の下の数字は検校登官年を示す)
柳川おふ一(1653)→浅利せう一(1656)→早崎そよ一(1712)→野崎とだ一(深草官一とも)(1716)→田中城訓(?)→安村らい一(1731)→河原崎(たみ一)(1776?)→上原検校(?)→桂くの一(1804)→富士岡検校(1831)→古川滝斎(1838-1908)→渡辺正之(1872-1937)→萩原正吟(1900-1977)
上記は上派の免状にある柳川流の系統であるが(ただし富士岡検校は下派に属する)、下派は「安村検校」以後は箏の系譜と同様に伝承されている。すなわち
安村頼一(1731)→浦崎了栄一(1801)→八重崎壱岐之都(1815)→初代松崎通信一(1823)→二代松崎孝謙一(1845)→松阪春栄(1854-1920)→津田青寛(1882-1946)→津田道子
注 名前の下の数字は、上派の古川、下派の松阪以後は検校登官年ではなく、生存年をあらわす。
京都當道会
明治4年の太政官命をもって當道組織は廃止されたが、旧官途に属する男性盲人(検校、勾当などの職屋敷に属した人)により、地歌・箏曲の古典の伝承・保存、及び日本音楽を以て女子教育に従事する事を目的として、明治17年設立契約、翌年創立された。当時の有名邦楽家が組織し、「琴優社」と称した。事業としては前記のほかに祖神を拝し琴絃を弾奏、免状を発行することであった。(免状発行は検校のみが出来、それ以下の人は札下といって札元の検校を通して発行できた)この一方で固くなまでに古典を伝承・保存し今日に至っている。なお。大正11年に「京都當道会」と名称を変更、免状は當道会が発行し、女子も免状を発行できるようになった。平成2年「社団法人」京都當道会となり、京都発祥の柳川三味線、腕崎流胡弓、生田流箏曲の伝承・保存を会の目的として、新人の育成・演奏活動・研究を事業として現在に至っている。
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http://web.kyoto-inet.or.jp/people/toshi-t 英文 (津田道子)