二十年をかえりみて
宇野小四郎(人形劇研究家)
デフ パペットの二〇年は僕にとってもさまざまな思いのこもった二〇年であった。その存在は社会の片隅の小さなものに過ぎないが、その活動は誇りをもってよいと思っている。僕自身は四年ほど前に財団を退職してから直接の参加はしていないが、デフ・パペットの存在と活動は僕の体の一部のように感じて、心の支えになっている。
一九八〇年一〇月に設立の準備を始めたときには参加してくれるろう者がなかなかいなくて困っていた。そのとき真っ先に参加してくれたのは、今も活動を続けている酒井郁さんと、今回の「オルフェウス」の美術も担当してくれた安元さん夫妻であった。その翌年四月には今回の作、演出を担当している庄崎隆志さん、聴者としては、今回の音楽を担当しているやなせけいこさんも参加して来た。庄崎さんは当時まだ一九歳の学生であった。
そして一九八一年八月四日に、日本青年館で行われた日本演劇教育連盟主催の全国演劇教育研究集会の第三十回大会で「オルフェ」が上演された。セリフも音楽もない静寂な舞台、聞こえるのは舞台を歩く素足の演技者の足音と、衣装が触れ合うかすかな絹擦れの音だけという五十分の幕が下りたとき、一千人を越す観客の割れんばかりの大きな拍手に包まれて皆抱き合って喜んだ。僕も込み上げる涙を抑えられなかった。舞台の上で涙を流したのは一生に一度の体験であった。こうして新しいプロの人形劇団が誕生したのである。
デフ・パペット設立に当たっては、一九八〇年の「国際障害者年」を当て込んだ一過性の企画と見られたり、新しい型式の実験的な要素が強い、大人も対象とするようなプロの劇団が成り立つ筈がないといわれた。今の日本ではまだ機が熟していない、早すぎる。とか、一口でろう者と聴者が協同してつくるといっても、それは生易しいことではない。一年も続くまい。などと言われもした。
このような忠告やら批判があながち間違っていたとは思わない。確かに運営上、創造上の困難さ加減ときたらなみ大抵のものではなかった。非力なわれわれは、何度もおしつぶされそうになった。にもかかわらず、すぐ元気を取り戻し、曲がりなりにも前進して来れたのは、メンバーの捨て身の開き直りとも見える楽天性もさることながら、日本の社会全体がゆるやかでも、我々の向いている方向に動いているという確信があったからである。