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日露戦始まり、旅順要塞攻撃へ

乃木将軍は明治二十九年十月より三十一年二月まで台湾総督を任ぜられ、続いて明治三十一年十月から三十四年五月まで四国丸亀の第十一師団長をつとめ、以後退役して、下野国(しもつけのくに)の那須野原石林村の別荘で鍬鋤を持って田畑を耕作し、野人農夫となって余生を暮らしていた。

明治三十六年頃になると、日露の国交が日に日に険悪になっていった。そして遂に国交は断絶、翌三十七年二月十日開戦し、予備役であった乃木さんにも動員令が来たので上京し、近衛師団長という内地における役であった。そして第一軍、第二軍、次々に征途についた。

その時の乃木さんの心境を

花(はな)を待(ま)つ身(み)にしあらねど高麗(こま)の海(うみ)

春風(はるかぜ)吹(ふ)けと祈(いの)るものかな

と詠んでいる。

この祈りが神に通じたのか五月一日、難攻不落をもって聞こえる旅順要塞を攻撃するために第三軍が結成され、乃木将軍はその司令官として出征することになった。

乃木将軍にとって旅順は十年前の明治二十七年十月二十日、日清戦争の時に第一旅団長としてこの地を攻め、同夜半から行動を開始して二〇三高地の谷を渡って敵の背後を突き、全く兵士の力の差でもあったが、一日で旅順を陥れてしまっている。

しかし今回は全く事情が一変していた。ロシアは全長四里半(約一八キロメートル)にわたって十二個のベトンコンクリのトーチカを造り、これに臨時砲台約五十ヶ所を設け、歩兵三十六大隊と、三中隊、騎兵一個中隊、野砲七中隊、要塞砲兵三大隊、工兵一中隊、地雷一中隊を持ち、背後の海にはロシア東洋艦隊の精鋭が糧食弾薬を豊富に貯蔵し、難攻不落の堅城にし、いかなる強い兵をもってしても三ヶ年は必ず支えてみせると、敵の将軍ステッセルをして豪語せしめている全く堅固な要塞旅順であった。

この要塞の攻防をめぐって、文字通り死闘に継ぐ死闘が繰り広げられることとなる。

 

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ロシア軍旅順要塞の一部

 

 

 

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