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仕方なく海舟は山岡鉄舟等に命じて上野東叡山の中堂には徳川家代々の貴重な家宝が納められているので、せめてこれらの宝物だけでも救い出そうとしたが無駄であった。この上野戦争総攻撃に加わった官軍の兵士はおよそ一万五千人程といわれる。官軍は上野を近く、遠く、取巻く形で彰義隊の幾倍もの兵と小銃だけでなく臼砲大砲など皆新式の兵器を備えた精鋭であった。

これに対して彰義隊の方は三千人もいた幕軍が開戦の時は“未だ戦は始まらないであろう”とたかをくくって外へ出たままの者やら、恐ろしくなって逃げた者やらで実際は千人程の兵力になってしまっていたといわれ、幕軍の方は一人戦死すれば一人減るというわけで、勢力は徐々に衰えるが、官軍の方は次々に新しい応援が来る、そして大きな大砲を据えて不忍池を越して寛永寺中堂や山門などめがけて巨弾をあびせかけた。そのため上野の山からは漠々たる砲煙と火炎が天をついて燃え上り、正に地獄図そのものであった。

このようにして日本の戦史の上で一番無意味で戦いの前から勝敗がはっきりしていた戦争といわれるのはこの上野戦争であった。

かくしてたった一日で官軍の前に彰義隊は散っていったのであった。

さて彰義隊も白虎隊も亡び、蝦夷共和国を樹立した五稜郭も成らず、五日間の戦で官軍に占領され、江戸は東京と改められ、江戸城を皇居にして明治維新の大業が成就されて、近代的な日本政府が発足するのである。海舟は彰義隊が亡んだ慶応四年が四十八歳であったが、常に“大不忠の忠義”、“不用意の用意”をしなければと、周到な用意に用意をこらして事に当たり、更に剣禅一如(けんぜんいちにょ)の境地を忘れず、中国の老荘思想に徹していたので、なすことすべてが成功し、成しとげて七十七歳まで生きている。明治十年の西南戦争にも日清戦争にも直接参加はしないが、陰で応援し働いている。いずれにしても幕臣勝海舟を維新政府は非常に重く見て、明治五年には海軍大輔、明治六年(一八七三)には参議兼海軍卿に任ぜられ、明治二十年(一八八七)には華族に列せられ、伯爵を授けられている。この時海舟は六十五歳の年になっていた。この頃より海舟も余命を考えたのか吹塵録(三十五巻)、吹塵余録(九巻)及び海軍歴史(二十五巻)、陸軍歴史(三十巻)、開国起源などの編纂を始めている。

 

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明治時代の勝海舟

 

明治二十二年十二月には勲一等瑞宝章を授与されている。そして明治三十二年(一八九九)一月十九日に脳溢血のため倒れ、翌々日一月二十一日に七十七歳の寿命で没してしまった。葬儀は一月二十五日前夜から降りはじめた雪で白一色に清められて、にぎやかにとり行なわれたといわれている。終りにのぞんで海舟の詩を…。

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<通釈>江戸は日本一の大都市である。そこには幾万という無事(罪のない人民)の民が住んでいる。この町をどうして焦土(焼野原)とすることが出来ようか。自分はこのことを考えると胸が傷む。然し江戸を官軍に引き渡すことに反対する旗本八萬騎の幕府の武士達は私を大不忠の大好人であると罵り、何度も刺客を向けている。でも私は至誠を以って天に捧げる方策を、彼等は知ったか知らないかこの奉天の策を…、今に見よ全都は安らかである。大義の心の軍はやたらに人を殺すことは好まないではないか、今全都の人々は欣々としているではないか…。今大切な時、自分は西郷さんと会見して無血開城のことを議したが、只談合するだけでなく、いざという時の天下を鎮める策(清野の術)は持っていた。それはどうしてもこの申し入れを官軍側が聞いてくれなかったら、ちょうど昔ロシア側が全都に火をつけてナポレオンの軍の侵入を撃破したような覚悟はしていた。でもよかった。官軍が江戸へ迫って来た時、私の魂の底まで知ってくれている西郷さんと談合して胸襟を開いて談し合った。さすが大英雄西郷さんはこちらの言うことをわかってくれて、無血開城の実があがったが、若しあの時一歩処置を誤まっていたら江戸百万の市民を髑髏としてしまったであろう…。

 

 

 

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