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現代剣詩舞を考える―舞踊美学の立場から―

石川健次郎

 

財団が設立されて四半世紀を経た現在、一応古典芸能と位置付けされた「剣詩舞」の芸能的な価値観をギ現代の時点で如何に考えるべきかを舞踊美学の立場で取り上げてみよう。

 

【剣詩舞の美学】

剣詩舞の持つ品格や魅力は一体どこから来たのであろうか、本質は大変むずかしい問題だが、簡単にいってしまえば古典芸能特有の“伝承の息吹き”によるものか、または剣詩舞のもつ時代を越えた舞踊美学と考えてもよいだろう。従って現時点におけるこの独特の“剣詩舞の美学”を次に再確認して置こう。

<静の中の動>

舞踊とは肉体を動かすことによって物ごとを表現する芸術であることはいうまでもないが、しかし、「能(のう)」や「上方舞しの技法には『心を十分に動かして、身は七分に動かせ』(世阿彌・花鏡)とか、『動かんようにして舞え』(井上流芸談)といった舞踊の原則に逆行するような教えがある。

武道でも『静中動』とか『動中静』という言葉がよく使われるが、剣士が静止の体形をとったときでも、その体からは激しい気塊が発散し、わずかな攻撃の動作でも強烈な迫力を感じさせる。こうした不動の構えができるようになるには、目付(めつ)けや姿勢などが重要な要素となることはいうまでもないが、それ以外にも、例えば神道無念流の奥儀では『剣は手に従い、手は心に従う。心は法に従い、法は神に従う。錬磨これ久しゅうすれば手を忘れ、手は心を忘れ、心は法を忘れ、法は神を忘れて、神運万霊、心に任せて変化必然、すなわち体無ぎを得て至れりというべし』と述べているように、この極意でもかなりの錬磨と精神性を重視していることがわかる。さてこうした精神性は、剣舞も詩舞も基本的には同じような理念で出発しただけに、その多くは動より静を理想とし、その静にはあらゆる動の可能性を含めたものという発想があった。これは前述の世阿彌や井上流の芸談などとも同じ考え方であって、まさに“芸道”と呼ぶにふさわしい民族的な美意識が反映していると考えられるのである。

<美しい構え>

剣詩舞が品位、格調、位(くらい)どりを大変やかましくいう一因は、前項で述べたような芸道としての精神性が大切にされているからである。実際にこれらを前提とした従来の剣詩舞には静止の“構え”が数多く取入れられていて、演技者の構えを見れば大体彼らの技量は推定されるとまでいわれてきた。

それでは一体、品格のある美しい構えとはどの様な体形をいうのだろうか、日本古来の芸能である能や狂言などを見ればわかるように、演技者は大地(舞台)にしっかりと定着し、安定感を持つことが原則とされてきた。そのためには“腰を入れる”と呼ぶ基本体形をとり、姿勢を沈めることで重心をかなり下げる訓練をしてきた。したがって歩く場合でも、通常の歩行のように足を上げ、股を開くようなことはせず、“すり足”(能足)の歩き方が考案された。これは西洋舞踊のように跳躍を主体として、大地をはなれ空間に肢体を展開させる舞踊とは非常に対称的で、洋舞をエネルギーの発散型と呼ぶなら、前者は内包型と呼ぶことができよう。

 

 

 

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