この中国古来の考え方も、天を神と置き換えればそのまま聖書の世界に通じます。
ただ、聖書の違うところは、人格神の意志で自らの息を吹き込んだ結果なのだ、というところでしょう。中国の天にしても易占などで予測可能な法則性をもっており、人間と対話するような人格性はないようです。
聖書のいう人格的な神なんてたわいないイメージで、納得がいかない、という方があるかもしれません。現代科学ではいのちの誕生は偶然によるということになっているようですし、宇宙の力や自然の精密機械のような働きの結果だという説もあるでしょう。
ただ、ユダヤ教やキリスト教で人格神というのは、神に人間のような人格や意志があるかないかの問題ではなく、われわれ人間側として、神というのは機械や偶然のように、責任を問題にせず無機質に対応する相手ではなく、全人格的な、責任ある対応を迫られる相手だぞ、というこちら側の認識の前提なのです。
というわけで、もう一度、創世記2章の「人の創造」の場面に戻ってみましょう。
この箇所はなかなか味わいがあります。神の息、神の霊が吹き込まれて、初めて人は生きる者となった。つまり人が人間として生きているいちばん中心にいのちのスピリットがある。それを呼吸することで人は生かされている。人を活かすのは神のスピリットだ、というわけです。
ではこのスピリット、人間だけに与えられた特権なのでしょうか。人間が万物の「霊長」と呼ばれるのはこのスピリットのおかげなのでしょうか。答えは否、です。