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1946年〜1970年

自然の猛威と人間の技術力との闘いへ

 

物不足、進駐軍による占領を経て、日本は戦後復興の時期を迎えました。その波は、やがて高度経済成長へと引き継がれていきます。青函連絡船にも次々と新型の船舶が登場しますが、平和の時代にも自然は気まぐれに連絡船に襲いかかります。

 

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第十二青函丸

 

●新型の船に戦後復興の期待を

戦後早々に誕生した第十一、十二青函(せいかん)丸、石狩(いしかり)丸は、船不足を解消するために車両甲板の屋根(船楼甲板)に客室を設けました。「デッキハウス船」と呼ばれて人気を集めましたが、あっという間に「進駐軍専用船」に指定され、日本人は貨物船の船倉などに詰め込まれて運ばれることになったのです。それでも、翌年にはエントランスホールに食堂などがある「海峡の女王」、洞爺(とうや)丸が登場。これら新型船とデッキハウス船に衣替えした第六、第七、第八青函丸とで計14隻が運航することになりました。所要時間は4時間30分。さらにレーダーも装備されて、人びとの戦後復興への意欲と期待に十分応えてくれたのです。

しかし、悲劇は突然にやってきました。昭和29年(1954)9月26日夜。台風15号を避けて函館桟橋で待機していた洞爺丸は、「台風の目」が通過したと判断して午後6時39分に出港。ところが、この台風の目は副低気圧によるもので、本物は航行にあわせるかのように函館の西に停滞。漏水で機関が停止し海岸に向かって流され、船底が海底に接触して横倒しとなったのです。また、第十一青函丸、十勝(とかち)丸、北見(きたみ)丸、日高(ひだか)丸も浸水転覆、沈没。1912年のタイタニック号に次ぐ海難の惨事となってしまいました。

 

●運航4時間の壁を突破する

風雨に負けない船を。戦後の青函連絡船の、これが最大の課題となりました。そこで旧国鉄は各種の対策委員会を設置して徹底的に船の構造と性能を調査、分析。その結果をもとに新型連絡船の建造に着手しました。こうして誕生したのが檜山(ひやま)丸Iをはじめとする3隻。エンジンにディーゼルを採用して操縦性を、車両積み込み口に防水船尾扉を取り付けて浸水対策を期し、後に続くディーゼル式連絡船の原型を作り上げました。

高度経済成長の入口に立った日本の開発意欲は止まるところを知りません。昭和40年(1965)には津軽(つがる)丸IIが「4時間の壁」を突破して3時間50分で運航。さらに「連絡船近代化計画」が始動し、大型で高速の新客載車両渡船6隻の開発が始まったのです。ティーゼルエンジンを8基搭載して、いくつか故障しても定時運航を保証するマルチプル方式を採用。そのほか、思い切った自動化で、洞爺丸の半分以下の船員による運航を実現し、日本の技術力を見せつけました。こうして6隻が就航するとともに、戦後すぐに造られた9隻がその生涯を静かに閉じたのでした。

 

 

 

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