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1926年〜1945年

戦争の嵐にもまれながら

 

関東大震災後の復興費用の影響、第2次世界大戦に対応する増便、そして、米軍の空爆による全滅、終戦後すぐの復活と、青函連絡船は戦前・戦中の昭和で政治・経済の波の中を黙々と生きてきました。この期間、一号船から十二号船まで造られた青函(せいかん)丸も誕生。空爆で全滅するまで、津軽海峡には常にその姿がありました。

 

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第一青函丸

 

●北海道石炭の輸送に2倍に増便

青函連絡船の昭和は、関東大震災の後遺症から始まりました。旅客を乗せない純車両渡船、第一青函(せいかん)丸と第二青函丸はレールを4線に増やして43両を積載しましたが、片道運航時間は6時間と2時間も遅くなってしまいました。関東大震災後の復旧費がかかり、連絡船の予算が大幅に削られたためだったのです。

しかし、その後、昭和14年(1939)就航の第三青函丸には、車両の積み下ろしをスムーズにするために車両甲板に屋根が取り付けられ、第四青函丸では4時間半のスピードを取り戻すまでになりました。体制を整え、いざ次の時代…関係者たちは誰もがそう思ったでしょう。

その「次の時代」は、思わぬ形でやってきました。第2次世界大戦に対応した「戦時標準船」の規格化です。材料規格を統一し、工作を簡易にして大量生産を行うというものでした。一方で、軍需産業に欠かせない北海道石炭の輸送に、青函連絡船の運航回数は飛躍的に伸びたのです。戦争勃発前の1日10往復が、昭和19年(1944)には倍以上の21往復を数えることに。船舶も第十青函丸まで次々に造られました。

 

●津軽海峡が空爆を襲う日

いわゆる大本営の勇ましい発表とは裏腹に、日本は至るところで敗戦の兆候を示していました。男たちは根こそぎ戦争に徴兵され、食糧は日に日に不足の度を増していったのです。

連絡船の燃料石炭も極端に悪化し、さらに機関事故の続出、修理部品の不足と続き、運航は1日13往復がやっとの状態。それでも、アメリ力潜水艦の攻撃でマヒ状態になっていた沿岸航路を横目に必死で輸送を続けていました。

しかし米軍が、青函連絡船だけを見逃すはずはなく、7月14日未明、アメリカ機動部隊から発進した艦載機が大群をなして津軽海峡一帯を空爆。反撃の手段を持たない船はことごとく沈没、炎上。わずか1隻残った第一青函丸も、翌日の攻撃で沈没。ついに全滅したのです。

1カ月後に終戦。平和が訪れたとはいえ、津軽海峡を渡るべく集められたのは戦火を浴びた船ばかり。それでも、10月には戦時中に建造された「戦時標準船」、第十一青函丸が就航。誰の目にも新時代を運ぶ船に見えたことでしょう。

 

 

 

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