心学と明治維新
マックス・ウエーバー、さらに恩師タルコット・パーンズの影響のもとで、『徳川時代の宗教』をまとめられたベラー先生の研究をさらに補完するためにも、この問題を掘り下げることにはそれなりの意義があります。
心学が衰退していった理由には、全国の心学講舎全体を統率しうるリーダーがでなかったことや、京都と江戸の心学講舎の対立にみいだされるような内部的要因もありました。さらに医学・蘭学などの新しい学問のひろまりと、儒教批判や仏教排斥の動きも心学に影響を与えるようになります。そしてべラー先生もいわれた権力との癒着などの理由も忘れることはできません。
しかし明治に入って、すぐさまに心学が衰退したと断言するのは必ずしも正当な評価とは思われません。そのことを京都の場合について少しばかり検討することにしましょう。京都には町人の自治による町衆の町会所の伝統があり、寛文二年(一六六二)の伊藤仁斎による古義堂の開講のような、町人の学問塾はかなり早くから存在しました。石田梅岩先生の開講よりは六十七年ばかり前のことです。また町会所には寺子屋が付設されており、孔子信仰ばかりでなく、菅原道真公の天神さんの信仰が、京の寺子屋には息づいていました。それは寺子屋に天神さんの像や掛軸をかけた例が多いのにもうかがわれます。