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黒川 私の梅岩像は、中村先生と同じです。私はご縁があって、昭和六十年に亀岡市文化資料館がオープンした時、亀岡にはじめて参りました。その年が、梅岩生誕三百年でもあり、梅岩先生の特別展を担当しました。以来、私は常に思っていることですが、梅岩先生の“継続する力”は並大抵のものではないということです。十一歳で京都に出て最初の丁稚奉公をし、勤め先がつぶれて十五歳の時郷里に戻られます。二十三歳の時再び京都に出て、上京の商家黒柳家に奉公します。以来、四十三歳まで二十年間奉公をつづけ、働きながら独学して、四十五歳の時私塾を開きます。普通なら隠居する頃に、いまいちど新たな目標に向かおうとします。情熱と信念の人であり、思想家としてもすぐれた方で、生涯学習の先駆者でもあったと思います。

同時に、梅岩先生のお人柄です。先ほども“やさしくて信念の人”“素敵な人”等と、イメージが紹介されましたが、たしかに素晴らしい人間的魅力にあふれた方であったと思われます。そうでなければ、ただ単に、思想が優れているだけでは当時の人もついて来なかったと思われます。この梅岩先生の生きざまが今、地元からいろんな形で発信されているのだと思います。

―梅岩先生のこの“継続力”なり“人間的魅力”はどこからきているのでしょうか。

黒川 後世につくられた“人の事跡”は、普通、良いことしか書いてありません。人間梅岩の実像があきらかになる資料が将来出てくれば、積極的に紹介する姿勢が必要だと思います。ひとつ言えることですが、梅岩先生はさきほども言いましたように、最初の奉公から帰って、二十三歳で二回目の奉公に行くまでの約八年間を郷里で過ごされています。が、この八年間の記録が全く空白なのです。十五歳から二十三歳までの、少年期から大人になるまでの時期は、いつの時代にあっても人間形成上とても重要です。今日でも、この年代で非行にはしる子もいれば、そうではない子もいるとさまざまで、社会問題になることさえあります。梅岩先生が郷里で過ごされたのは、ちょうどこの年代と重なります。

つぎは私の想像ですが、この八年間に、思想的にはまだしっかりかたまっていなくても、人生を真正面からしっかりと見つめて、その後の生き方に対し真摯な決意をされるようなことがあったのではないかと思います。そのひたむきな努力の継続が、人間的魅力の醸成へとつながったのではないかと思います。

谷口 ところで、今日も経済的に厳しい時代で、多くの企業が倒産しています。倒産した企業にいると、倒産の味がよくわかるといわれます。経験や体験などと言った甘っちょろいものではない。それはちょうど、女性が子供を産む時、場合によっては自分の命とひきかえですから、経験や体験とは言わないのと同じです。自分が生きるか死ぬかというところまでを体験して得ることを私は<体感>と言っていますが、梅岩先生はまさに、何かを体感なさったのだと思います。梅岩先生の教えは、そういった体感の中から独学で、「人間が人間として生きるべき道」として自ら血みどろになって生み出された“学問”だったからこそ、三百年ちかくたった今日でも伝えられているのでしょうね。

 

 

 

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